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「まごころの現場主義」 マルコ福音書4章1~20節
宣教者:富田愛世牧師
【イエスの現場】
教会に来る方の中には、宗教に興味を持っている方が多いと思います。世界には様々な宗教がありますが、ほとんどの宗教において、その目的は人間の幸せを求めることだと思います。
しかし、聖書を読むならば、そこには人の幸せと言うよりも、もっと根本的な事柄として、創造主の存在と創造主の目的が書かれているのです。この創造主の目的とは、ご自身が創造されたものの中で最高傑作である人間を愛し、人間と正しい関係を築くことなのです。
もちろん神との正しい関係を持つことの結果として、その人が幸せになるのですが、それは結果であって、目的ではないのです。
先程から宗教という言葉を使ってきましたが、この聖書に書かれている創造主、神は宗教という枠に収まるようなお方ではありません。しかし、人間は自分たちに都合の良いように、また自分たちが理解できる範囲で神との関係を築こうとしたわけです。
イエスの時代、ユダヤ教は神殿中心の宗教活動をしていました。神殿という限定された場所で神との関係を築いていったのです。
しかし、イエスは神殿に留まるのではなく、人の生活する場所に出て行かれました。そして、その生活の場において神の言葉を語ったのです。何年か前にある映画の台詞で「事件は現場で起こっている」という言葉が流行りました。TVのコマーシャルでも「まごころの現場主義」なんてコピーがありました。
人の生活の場、つまり、現場ということの大切さを人々は知っているのです。そして、イエスもそのことをよく理解され、現場を大切にしていたのです。
【種をまく人と種】
イエスは神の言葉を生活の言葉、現場の言葉にしましたが、その一つの方法が譬え話にするということでした。人々が日常の生活の中で出会う事柄に神の言葉を当てはめていくわけです。そうして人々の心に神の言葉を届けようとされたのです。
このように言うとイエスが特別なことをしたように聞こえるかもしれませんが、本当は特別なことをしたのではなく、当然のことをしていただけなのです。反対に宗教家と呼ばれる人たちが、律法に代表される神の言葉を、特別なものに変えていってしまったのです。
私も注意しなければならないことですが、教会に初めて来て戸惑うことの一つに、何て言っているのか言葉が分からないという事がよくあるそうです。いわゆる「クリスチャン用語」が使われるという事です。
さらに「クリスチャン用語」を使う事によって、高飛車な態度に見えてしまうという事もあるので注意しなければなりません。
その点、イエスの譬え話は当時の人たちにはよく分かる言葉だったようです。特別な「クリスチャン用語」のようなものを使わず、普段使っている言葉をそのまま用いているのです。
今日の箇所でイエスは種を蒔く人と種、そして種の落ちた土地について話をされました。当時のユダヤ人は牧畜や農業で生活する人が大半でした。ですから「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と言うだけで同じものをイメージしたのだと思います。
そして、これは譬え話ですから、それぞれに意味することがあります。種を蒔く人とはイエスご自身、種とは神の言葉、種の蒔かれた土地というのは、神の言葉を聞いた人々の心の状態を表しているのです。
ここに集まっている群衆たちは、みんなイエスの話を聞こうと集まっているわけですから、すんなりと自分たちが、これらの土地なのだと理解したと思うのです。
【聞く人々】
神の言葉を聞く人々には道端、石地、茨の中、良い地という4つのパターンがあると言うことですが、私たちはこのようにいくつかの例を出されると、自分はどれに当てはまるのかと考え、どれが正しくて、どれが間違っているかということに関心を持ってしまいます。
しかし、ここで間違えてはいけないことは、二者択一的にどれかを選ばなければならないとか、自分はどれに当てはまるかを考えて、正しいものならば良いが、間違ったものに当てはまっているならば反省して正しい選択をしなければならないと言うことではありません。
人の心の状態は、いつも変化していて、この4つのパターンに当てはまることがあるという事なのです。
ある時には道端のような時があり、聞いた言葉が右の耳から入り、すぐに左の耳から出て行ってしまいます。また、ある時には石地のようになります。いい話を聞くと「本当に良い話を聞いた」と感動し、その気になるのです。そして頑張って何かを始めるのですが、時間の経過と共に感動が薄れていくと元に戻ってしまうのです。
茨の中という時もあるようです。神の言葉を聞いて感動し、少しずつ変えられていくのですが、様々な逆境の風が吹いてくるのです。ここで言うならば、芽を出し、伸びようとする時に茨がふさいでしまうと言うことです。逆境の中で最初の思いが萎えてしまうのです。
そして、ある時には同じ言葉を聞いているのに、チャンネルが合うと言うか、しっかりと心に響いて根ざしていくことがあるのです。良い地になって豊かな実を実らせると言うことです。
このように一人の人の心の状態も変化しますし、もう一つ、重要な事として、どんな状態であったとしても、豊かな実を実らせる良い地に変化する可能性があるという事なのです。そのヒントはパレスチナの農法にあるのです。
【豊かな実り】
日本の農業では、種を蒔く時は、まず土を耕して、肥料をまいて、畝を作って、そこに一つずつ種を蒔きます。
しかし、ところ変われば何とやらで、パレスチナでは、種を蒔いてから、畑を耕すという農法が取られていたそうなのです。畑となる場所があれば、とりあえず種をばら撒くそうです。そして、ばら撒いた後にそこを鋤で耕すそうです。
つまり、道端のように踏み固められた土地であったとしても、そこを耕すならば、そこは良い地に変えられていくということです。
土の薄い石地や茨が生い茂っていたとしても、鋤き返されることによって良い地に変わる可能性があるという希望が語られるのです。
そして、この良い地に変える鋤というのは、神の愛なのです。私たちの心がどんなに頑なになっていたとしても神の愛によるならば、柔らかい心へと変えられる可能性があるのです。
私たちはそれぞれの人生において様々な経験をしています。苦しい経験や裏切られる経験をして、誰も信じられなくなる事があります。
たくさんの人々によって踏みつけられ、硬くなった心にも、神の言葉という種が蒔かれるのです。そして、イエスがその愛によって、私たちの心を柔らかくなるまで、耕してくださるのです。
ある人の心は石地のように薄い土しかないかもしれませんし、ある人の心には茨のような誘惑が絶え間なく襲ってくるかもしれません。
しかし、イエスはその愛と哀れみによって、丁寧に私たちの心の畑を耕してくださいます。ゆっくり時間をかけながら耕されるうちに、蒔かれた種が芽を出す時がくるのです。そして、その種は豊かな実を結ぶと約束されているのです。
今、私たちの前には、この希望がおかれているのです。実り豊かな人生を送るために、神の言葉という種を喜んで受け取り、イエスに委ねて、心の畑を耕していただくなら幸いです。
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