前 奏
招 詞   詩編43編3~4節
讃 美   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
讃 美   新生526 主よわが主よ
主の祈り
讃 美   新生537 重い荷を担い
聖 書   マルコによる福音書4章21~34節
                   (新共同訳聖書 新約P67)

「~のようなもの」          マルコによる福音書4章21~34節

宣教者:富田愛世牧師

【ともし火のようなもの】

私たちの周りには様々な出来事が起こります。しかし、事実として起こっている事柄がすべて真実であるとは限りません。

チョッと分かりにくい言い方ですが、目で見たり、耳で聞いたりする事柄は事実として目に入り、耳に入りますが、それらが真実かどうかというと必ずしも真実とは限らないのです。

私はある別れの場面で「大好きだから、大嫌いです」と言われたことがあります。事実として耳に入る言葉は矛盾していて、日本語として意味の通じない言葉です。しかし、そこには隠された真実があるわけです。そして、その真実は相手との関係性の中で共通の体験、言語やセンスによって培われ、伝わるものなのです。

また、日本の文化の中に「本音と建前」という事があります。本音という真実を建前という事実で隠してしまうことがよく行われます。今は様々な状況の中で明るみには出せないが、いつか時が来れば、その真実が明るみに出るという事があるのです。

イエスは群衆に対して神の国の福音を譬話を用いて語られ、その後、弟子たちに対して、その内容を説明しているのです。そして23節にあるように「聞く耳のある者は聞きなさい」と語るのです。

この言葉は冷たい言葉のように感じるかもしれませんが、深い配慮に満ちた言葉です。聞く用意のある人には語っても構いませんが、心が頑なになり、聴くことのできない人には、いくら語っても、むなしく返ってくるだけなのです。ですから、その時を待ち、時が満ちた時に聴くことが、その人の益になるのです。

 今は隠されているかもしれませんが、神の国は必ず明らかにされ、すべてを明るみに出されるというのです。

【秤のようなもの】

そして、神の国がどのようなものなのかについては「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」とあるのです。

一つここで注意することがありますが、それは神の国とはここにある、あそこにあるというような地理的なものではなく、神の支配という事なのです。神が支配されている時空を超えた領域を指しているという理解で話を進めていきたいと思います。

もし私たちが、神の国とは小さな働きだと思い描き、信じるならば、その人にとっての神の国の働きとは小さな働きになり、もっと大きな働きであると思い描き、信じるならば、その人にとっての神の国の働きは大きな働きになると言うのです。

ここには聖霊の賜物が関係してきます。自分に与えられている聖霊の賜物は豊かに用いなければなりません。用いていくならば、より豊かなものに成長します。また、豊かに用いることによってそれに関連したさらなる賜物が与えられるようになるのです。

しかし、与えられている賜物を見つけようとせず、用いないならば成長しないだけでなく、それは取り去られてしまうのです。

これは目的主導型教会形成と言う考え方にも共通することがあります。目的が分からずに何かをするということは、言われたことだけをするロボットと変わりません。

目的を理解しているなら、次にすべき事が何かを予測し、積極的に働きを拡げることができるのです。

理解するという事が「量る」という事ですから、理解した分だけ、心に蓄えることができるのです。

【成長する種のようなもの】

これら二つの譬話を聞くと人の考え方や行いの大切さが強調されているように感じます。もちろんそれも大切ですが、それと同時に神ご自身の働きが何よりも先にあり、大切であると言うことを忘れてはいけません。

26節からの3つ目の譬は農夫が種を蒔くという日常的な事柄を用いていますが、事実とは少し違う書き方がなされています。

ここだけを読むならば、農夫は種を蒔くだけで芽が出るのを待っているようです。しかし、現実には水をやり、雑草を抜き、様々な心配をしながら芽が出て成長するのを待つのです。しかし、なぜ成長するのかは分からないのです。

28節に「土はひとりでに実を結ばせるのであり」とあります。種は土に蒔かれなければ芽を出しませんが、蒔かれたならばひとりでに成長させてくれるのです。

同じように神の御言葉もとにかく蒔かれるだけで良いというのです。蒔かれさえすれば、やがて実を結ぶと言うのです。神の国のこと、神の支配は、神の配慮の中に、神の計画の中にあると言うのです。だから人間の側で急いだり、あせったりしてはいけないのです。

そして、そこには一つの秩序があります。はじめに茎ができて、それから穂ができ、穂の中に豊かな実ができるということです。

私たち人間は茎ができて、穂ができることを忘れて、いきなり豊かな実を期待してしまうことがあります。そうすると期待を裏切られた思いになってしまうのです。

しかし、それは期待が裏切られたのではなく、早とちりしてしまったと言うことでしかないのです。早とちりせずに、じっくりと腰を落ち着けて見ていくならば、芽が出てくるところ、そして穂ができることに気が付くのです。

弟子たちの役目は種を蒔き続けることなのです。どんなことがあっても、とにかく福音と言う種を蒔き続けることが、その使命なのです。私たちがすべき事は種を蒔くことであり、その種を成長させるのは神の役目なのです。

【からし種のようなもの】

最後の譬話は神の国はからし種のようなものであると言うことです。からし種と言うのは、小さいものの代名詞のようなものです。ゴマよりもさらに小さな種ですが、成長すると木のように大きくなり、鳥が巣を作るほどになると言うのです。

つまり、神の国、神の支配というものは、はじめは小さな働きにしか見えないかもしれませんが、やがて、その小さな働きが大きな働きになっていくというのです。

小さな働きと言うのは、すぐに効果を期待することはできませんが、続けていくならば必ず何かが動き出すのです。そして、期待していた以上に大きな働きになっていくと言う事なのです。

これを信仰に当てはめていくならば、どんなに小さな信仰でも神はそれを喜んでくださるのです。元々信仰には大きい信仰とか、小さな信仰という区別はないと思うのですが、あくまでも人の目から見て目立つ働きと目立たない働きと言う違いだと思うのです。

しかし、それが目立ったとしても、目立たなかったとしても、神の前にはまったく関係ありません。それこそ神の目はそんな小さなことには向いていません。もっと大きな広い心を持って見ておられるのです。

そんなことではなく、その信仰が生きているかどうかに注目されるのです。生きた信仰か、死んだ信仰かということは、私たちの言動に表れます。

また、生きた信仰は常に成長しますが、死んだ信仰には成長は見られないのです。ですから、生きた信仰であるなら、大きかろうが小さかろうが、目立とうが目立つまいがそんなこと関係なく、生きた信仰であるなら、それだけで充分なのです。

私たちにとって生きた信仰とは、どのようなものなのでしょうか。それは、一人ひとりが生かされている現場において、また、生きてきたストーリーによって違う形だと思いますが、そこでイエスに出会うという事ではないでしょうか。

讃 美   新生291 主イエスの支配は
献 金   
頌 栄   新生673 救い主 み子と
祝 祷  
後 奏