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「関係の回復」 マルコによる福音書5章1~20節
宣教者:富田愛世牧師
【向こう岸】
今日の箇所は先週からの続きとなっていて、先週の箇所ではイエスが「向こう岸へ渡ろう」と弟子たちに命じ、その途中で嵐に見舞われてしまったわけですが、今日の箇所は、その向こう岸へ着いたところから話がスタートします。
ガリラヤから見て「向こう岸」ですから、ガリラヤ湖の東側ですが、そこはどんな地域だったのかというと、北側はピリポの領地で、南側はデカポリスという地域でした。
1節を見ると「ゲラサ人の地」と書いてありますが、先週、お話ししたようにその辺がよく分からないのです。ゲラサという地名は確かにデカポリスに存在します。しかし、そこはガリラヤ湖から50キロくらい離れた内陸部にあるのです。
そして、湖の近くにはガダラという町があったようなので、もしかするとガダラとゲラサを聞き間違えたのかもしれませんが、真相は分かりません。
ただ一つ、はっきりと分かることは、そこは異邦人の地、異教の地であったということだけなのです。ユダヤ教から見るならば、汚れた場所である「墓場」に住む人がいるし、汚れた動物である「豚」を飼っている人たちがいるということは、紛れもなく異邦人の地であり、そこではユダヤ教的なものが全く排除されていたのです。
そんなところにイエスが行こうとされたのは、もしかすると静かに休みたかったからかもしれませんが、やはり積極的に考えて、異邦人にも神の国の福音を伝えようとしたのだと思うのです。
同じところにただとどまっているのではなく、新しい場所、可能性のある場所へと足を運んでいたのだと思うのです。
【墓場からやって来た人】
イエス一行が向こう岸であるゲラサ人の地に着くとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやってきました。この人は人との関係を断ち、人の嫌う墓場に住み、鎖で縛り付けることもできないほど凶暴で、夜昼関係なく叫び続けていた、さらに自分で自分を傷つけるという自傷行為を繰り返していたというのです。
この人は6節にあるように「遠くから」イエスを見つけ、走りよって来て「ひれ伏し」ているのです。
このような光景にいつも戸惑ってしまうのですが、汚れた霊、つまり悪霊ですら、神に対する礼儀をわきまえているというか、神に対抗しても無駄だという事を知っているのです。
さらに、悪霊はイエスの力を知っているので、イエスのところに出向いて来て「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と願うのです。
私に構わないでくれ、ほっといてくれと願っているのです。しかし、イエスの働きは人間を罪から解放することなのです。汚れた霊に取りつかれている人から悪霊を追い出さずにはいられないのです。
そこでイエスは何という名前かと聞くと「名はレギオン。大勢だから」と答えます。レギオンとはラテン語で、ローマ帝国の軍隊の一個師団を意味する言葉です。
一個師団は4、5千人の部隊だったようです。つまり、彼自身が言っているように取りついている悪霊は一つではなく、大勢だったと言う事なのです。
それは、悪霊につかれることだけではなく、人を苦しめてしまう原因も一つではないと言うことではないでしょうか。
一つの傷や誤解を解決しないでいるならば、それを土台にしてさらに傷や誤解が増えていくのです。どこかできちんと清算しなければ、取り返しのつかないことになってしまうのです。
悪霊に取りつかれていると言うと大げさですが、私たちもこの人と同じようにイエスの前に出て行って、心の中にある傷や人間関係のわだかまりを解決していただき、心を解放していただく必要があるのではないでしょうか。
【人の価値観】
私にとって、ここに出てくるイエスと悪霊の会話は、とても興味深いものなのです。なぜかと言うと、悪霊はイエスに悪態をつくのではなく、お願いをしているのです。
先程も言ったように、悪霊は自分が何者かを自覚しているからだと思うのです。イエスの前に滅びるばかりの存在だと知っているから、お願いするしかないのです。
イエスは悪霊の提案を受け入れ、豚に入ることを許しましたが、最終的には、悪霊の目的を打ち砕いているのです。
近くにいた2千匹の豚の群れに入ることを許しましたが、入った途端、豚の群れは湖に飛び込み溺れ死んでしまいます。ここでは湖ですが、海の底というのは旧約聖書を見ると「底知れぬ深淵」などと表現され、そこは悪の世界、闇の支配を表しています。
そういう意味で、この豚に入った悪霊は、この地上にとどまることを願っていましたが、闇の世界、滅びの世界に戻って行ったという事なのです。
この出来事を見ていた町の人々は、恐ろしくなり、イエスにこの町から出て行ってほしいと頼みました。彼らにとっては目の前で起こった出来事、つまり2千匹の豚が溺れ死んでしまったことがショックだったのです。
ここに人の価値観の愚かさというものが現れます。実際には悪霊につかれていた人が正気に戻り、そこに座っているのに、豚の方がもったいないと感じたのです。
コロナ危機の中にあって、経済か命かという究極の選択に迫られています。一人の人の痛みか、豚という財産かという選択です。
しかし、ここで関係性が重要な意味を持つのです。もし、この人が自分の家族だったら、もっと言うなら自分だったらどうでしょうか。この値段が高いのか、安いのか、しかし、本来は安いか高いかではなく、人の価値は何ものにも代えることのできないものであるということを、繰り返し確認しておかなければならないのです。
【解放された者】
町の人々との混乱を避けるためにイエスは彼らの申し出を受け入れ、舟に乗り帰ろうとしました。その時に悪霊を追い出してもらった人がイエスのところに来て「一緒に行きたい」と願い出ました。イエスによって癒された人がイエスに従いたいと願うことは自然な流れです。
イエスも弟子たちを召される時、網を捨て、家族を捨て私に従いなさいと命じられました。しかし、ここでは違ったのです。
イエスは彼の願いを聞き入れないで「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と言われるのです。
家族のもとに帰って、自分に起こったことを証ししなさいというのです。このように勧めたのには訳があったと思います。きっとこの人は汚れた霊に取りつかれたために長い間、家族との絆が断ち切られていたはずです。
本来あるべき関係性の中から排除されていたのです。しかし、悪霊を追い出してもらったことによって、その関係性が回復したのです。ならば、彼がすべき事はイエスについて行くことよりも大切な、彼にしかできないことがあるのです。
この後、この町の人たちがどうなったのか、聖書は何も記していません。しかし、悪霊を追い出してもらった人は家族にイエスのことを話したはずです。
その前に、家族のみんなが失われていた「彼」が帰ってきたことに喜んだはずです。今まで、家族の中に悪霊憑きがいるという事で肩身の狭い思いをして、いつもそれが気にかかり、心から喜べなかった、そんな家庭に喜びが戻ってきたのです。喜びが回復したのです。この喜びは町全体に広まっていったと思います。
イエスは今も安全な場所にとどまるのではなく、危険を承知の上で、また、人々から歓迎されないことを承知の上で、向こう岸にいる私たちのところに来てくださるのです。このイエスに心を開き、心の傷や痛みを取り除いていただき、苦しみから解放していただきましょう。
讃 美 新生614 主よ終わりまで 献 金 頌 栄 新生673 救い主 み子と 祝 祷 後 奏