前 奏 招 詞 詩編116編12~14節 讃 美 新生 13 ほめまつれ 主なる神 開会の祈り 讃 美 新生330 み使いの歌はひびけり 主の祈り 讃 美 新生332 川のように 平和の祈り 『神さま、私たちは今、これまで経験をしたことがない、 新型コロナウイルス 感染という状況下に置かれています。 神様あなたは、わたしたちひとりびとりの命を高価で尊いものとして 今も愛し続けておられます。 私たちはあなたの愛を信じ、何よりも命を大切にしていきます。 今この時、新型コロナウイルスに感染された方々、 感染者の方の治療に尽くされている医療従事者の方々、 命を支えるために働いておられる方々おひとりおひとりの 命が守られますようお祈りいたします。 私たちは、新型コロナウイルス感染による偏見、差別、貧困、 そして新たな争いが生まれないよう祈ります。 また、今もまだ世界のいたるところで続く紛争、 戦争が解決されるよう祈ります。 私たちは、イエス様が十字架の死を通して示された「愛」こそが、 平和のよりどころであることを信じます。 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、 ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。 こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて 平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、 十字架によって敵意を滅ぼされました。」 (エフェソ信徒への手紙 2章14-16節) そして、主イエスキリストと出会い、新たに生きる者となった私たちは、 あなたの和解の福音を携え、平和を求めていきます。 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、 新しく創造された者なのです。 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 これらはすべて神から出ることであって、 神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、 また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、 人々の罪の責任を問うことなく、 和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」 (コリント信徒への手紙I 5章17節~19節) この祈りを、今日この時にそれぞれの教会にて行われている平和の祈り、 そして、世界の教会にて祈られている平和の祈りに併せて お祈りいたします。』 聖 書 マルコによる福音書5章21~24、35~43節 (新共同訳聖書 新約P70)
「恐れず、信じなさい」 マルコによる福音書5章21~24、35~43節
宣教者:富田愛世牧師
【ヤイロ】
先週はガリラヤの向こう岸であるデカポリス地方での出来事でしたが、今日はもう一度ガリラヤに戻って来られたところから始まっています。
イエスがガリラヤに戻られるとすぐに群衆が集まってきました。そこへ一人の会堂長がやってくるわけです。名前を「ヤイロ」といいました。
ヤイロに限らず、当時のユダヤ教において会堂長という働きはとても重要なものだったようです。会堂という建物はユダヤ教徒にとって心の拠り所となっていたようです。
元々人間の宗教心というものはとても弱いもので、何か形のあるものに寄りすがりたい気持ちがあります。多くの宗教では偶像を作り、それらを拝むことによって、その気持ちを満たしますが、ユダヤ教は偶像崇拝を禁じていたので、矛盾していますが、それを補うために会堂があり、その役割はとても大きなものだったようです。
会堂長の働きは会堂の管理だけでなく、そこで行われる様々な行事の運営にも関わり、大きな責任を負っていたようです。
そのような立場だったので、人々から尊敬され、社会的な信用もあり、指導的な立場にあったと思われます。そして、いわゆる体制側の人間だったわけです。
また、イエスとの関係となると、ヤイロにとってイエスという男は異端者であり、会堂を中心としたユダヤ教の秩序を、そして、社会全体の秩序を乱す者と映っていたに違いありません。
イエスの噂は町中に広まっていたようですから、その行動や言葉に対して敵意を持っていたと思うのです。
【ヤイロの心】
そんなヤイロが22節の後半から23節を見ると「イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。」とあります。
少し前までは、自分が信じるユダヤ教の秩序を乱す者として敵意を抱いていたはずですが、いざ自分の娘が死にそうになっているという現実に直面した時、体面など気にせず、自分の無力さ、人間の限界を思い知らされたのではないでしょうか。
そして、自分には何もできないことを知った時、人を超えた存在である神に頼らざるを得なくなったのです。
もちろんユダヤ教徒ですから、神を信じていたはずです。しかし、彼の信じていた神は律法を守り、伝統の中で同じ儀式をくり返すだけの存在だったのです。本当の意味で命を支配し、命を与える、生きた神ではなかったのです。
当時、イエスの周りにはユダヤ教やユダヤ社会から見捨てられたり、追い出されたりした人々が大勢いたはずです。はじめは生きる気力を失い、失望の中で死んだようにしていた人たちが、イエスと共にいることによって生き生きとし、喜びを持つように変えられていったのです。
ヤイロには自分の立場があったので、素直に見ることができず、批判していたようです。しかし、自分の娘のことになると話は別です。究極の選択の中で彼の心は動かされていったのです。
ヤイロは会堂長ですから、人をやってイエスを連れてくることもできたはずです。そして、ずっと娘の側についていることができたと思います。しかし、ヤイロは自分でイエスの所にやってきました。
社会的立場、名誉、世間体を捨てることによって、ヤイロはイエスのところへ行き、その前にひざまづく勇気が与えられたのです。もしかすると、今までも既成のユダヤ教に疑問をもっていたけれど、それを言い出す勇気がなかったのかもしれません。
しかし、すべてを捨てることによって、与えられる勇気ほど、力のあるものはありません。何も怖いものはないのです。失うものがなくなった時、そこにはプラスの力しか存在しないのです。
【イエスの答え】
ヤイロの願いをイエスは受け入れ、彼の家に向かいました。ヤイロとしては一刻も早く家へと急ごうとしたはずです。ところが、その途中でハプニングが起こってしまうのです。
25節にあるように、長い間、出血の止まらない病気に苦しむ女の人がイエスの衣にさわり、イエスの足を止めてしまったのです。
一刻を争うヤイロにとって、イエスの歩みは気が気でなかったと思います。「早くしてください」とイエスをせかしたかったと思います。実際にせかしていたかもしれませんが、聖書には何も書かれていないので分かりません。そして、最悪の結果が伝えられてしまうのです。
35節を見ると会堂長の家から使いの人がやってきて「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と伝えるのです。娘の死を知らされたヤイロの心はきっと絶望に打ちひしがれたと思います。
イエスが来てくださり、娘に手を置いてくれれば癒されると希望を持っていたのに、もうすでに手遅れになってしまったのです。しかし、ここで聖書は会堂長の気持ちにはいっさい触れずにイエスの言葉を記しているのです。それも、その使いの言葉を「聞き流して」会堂長に答えているのです。
そして、「恐れることはない。ただ信じなさい」とだけ語られるのです。一体どういうことなのでしょうか。
人間の常識と神の計画の決定的な違いがここにあるのです。人間の常識では、死によってすべてのものが奪い去られるのです。喜びも希望も命も、すべてが死の前に力を失ってしまうと考えています。
しかし、神の計画の前には、そんな常識は通用しないのです。この神の計画が福音と呼ばれるものなのです。イエスは恐れずに信じなさいとだけ語られ、ヤイロの家へと向かい歩まれるのです。
【命の回復】
家に着くと、そこは絶望の只中でした。人々は泣き叫び、騒いでいました。そこには娘の死に対する受け入れることの出来ない悲しみと、なぜ死んでしまったのかという、行き場のない怒りがあふれていたのではないでしょうか。
そんな人々を前にしてイエスは「なぜ、泣き騒ぐのか」と質問され「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と語るのです。それを聞いた人々はイエスの言葉にあきれ果て、嘲笑いました。
しかし、イエスはそんなことはお構いなしに、人々を部屋から追い出し、3人の弟子とこの娘の両親だけを連れて、死んだ娘の部屋に入って行くのです。
そして、死んだ娘に向かって「タリタ、クム」と声をかけました。これはイエスが日常用いていたアラム語で「少女よ、さあ、起きなさい」という意味でした。
この呼びかけに答えて、死んでいたはずの娘が起き上がったのです。そして少女は歩き出し、イエスは食事を与えるように命じられました。歩いたということは、自分の意思で一歩踏み出すということです。イエスから命を与えられた者の行動は、この一歩踏み出すということです。
そして、食事をするように命じられたということは、命が回復し、これから生活が始まるという事なのです。この生活とは今までの生活とは違った新しい生活です。
それは主と共に歩む生活なのです。失われていた命がイエスの力によって豊かにされていき、食事によって栄養を得るように、健やかに回復させられていくのです。
イエスという命の源流から流れ出る命の水は枯れることなく、どこまでも流れ続けるのです。否定的な考えに支配され、恐れるのではなく、ただ信じる時、豊かな命、永遠の命が与えられるのです。
讃 美 新生410 信ぜよ 信ぜよ 献 金 頌 栄 新生673 救い主 み子と 祝 祷 後 奏