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「藁にもすがる思い」 マルコによる福音書5章25~34節
宣教者:富田愛世牧師
【生きること】
8月は平和を考える月間であると同時に、今はコロナ危機の中にあって、改めて命の大切さ、生きることについて考えさせられています。
生きること、命が与えられていることは、当たり前の出来事ではなく、神の恵みとして受け止めなければならないと思わされます。そして、今こうしてここに集まっていることも、また、集まれなくても、お互いを覚えているという事は生きているからこそ、できるのだと思います。
今日のこの礼拝、そして、皆さんと教会で出会ったという事実、また、もしかすると、まだ、物理的には出会っていないけれど、ネット環境を通して出会っているということは、一度きりの出来事なのです。そういう意味で大切にしていきたいと思わされるのです。
それでは、この生きるということは、いったいどういうことなのでしょうか?どういう時に生きていることを実感しますか?
私は特にそう感じるのですが、美味しいものをお腹いっぱい食べた時、何て言いますか?「幸せ!生きてるって感じ」とか「生きてて良かった」と言いませんか。幸せを感じる時に生きていることを実感することが多いようです。
反対に幸せを感じられない時、苦しい時はどうなのでしょうか。生きることがいやになってしまうのです。
私たちの一番身近にある思想の一つとして、仏教思想があります。ほとんどの日本人は意識する、しないに関わらず、仏教的な思想というものが刷り込まれています。
この仏教においては生きることは苦しみだと説いています。これはとても大切なことです。しかし、苦しい時に「苦しみとは」などと考えることのできるような強い人はなかなかいません。それでは苦しくない時に、苦しみについて考えるかというと、これもまた愚かな人間には難しい事なのです。
苦しいことからはなるべく離れていたい。苦しいことを遠ざけたい、考えるのもいやだと思うのが一般的な考え方なのです。
【忘れられた人】
今日の聖書には12年間、病気で苦しんできた女性が登場します。病気の治療のために多くの医者にかかったけれど、病気は治らず、かえって苦しみが増し、全財産を使い果たしてしまったという事なのです。
病気というものは、苦しみの代表選手ですが、彼女を苦しめたのは、この病気だけではなかったようです。現代は西洋医学の発達によって科学的に病気を理解していますが、2千年前は悪霊やたたりによって病気になると信じられていました。
一部の病気については、宗教的な汚れがあるとして、その人を社会から排除してしまうこともあったのです。社会から排除され、人々から忘れ去られてしまった存在となったことが、彼女の苦しみに追い討ちをかけていたのです。
私は一番大きな苦しみというのは、この忘れられた存在となってしまうということではないかと思うのです。
私たちの周りにも、このような「忘れられた人」がたくさんいます。北九州でホームレス支援の働きをされている奥田先生がTVにも時々出演しているので有名ですが、市川でもガンバの会でホームレス支援の働きをしています。彼らの働きも「忘れられた人」を見つけ出す働きだと思うのです。
また、わたしには忘れられない一人がいます。10年以上前、私が牧師をしていた教会に野町智之さんという方がフラっと訪ねてきました。メッセージの中で個人の名前を出すのはよくないことかもしれませんが、あえて名前を出して忘れないようにしたいと思っています。野町さんは幼い時に親に捨てられキリスト教系の施設で育ちました。少年時代にボクシングを始め、飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍したそうですが、不幸なことが重なり、転落の人生で酒に溺れ、教会に来た時には肝臓とすい臓がボロボロになっていました。自分は天涯孤独で誰も心配してくれる人はいないと語られましたが、教会の学びで「人生を導く5つの目的」という本に出会い、自分も必要とされていること、自分にも生きる目的が与えられていることに気づき、本当に喜んでいました。しかし、教会にも居場所を見つけられず、憂さ晴らしにお酒を飲んでしまい、2005年5月にそのまま独りで亡くなりました。亡くなってから1週間位して亡くなったことを知りました。もっと何か出来たんじゃないかという悔いが残っていますが、最後の数ヶ月はイエス様と共に歩めたということも事実です。この出来事をどのように総括すべきか分かりませんが、私だけは忘れてはいけないと思っています。
【精一杯の行動】
忘れられている人、虐げられている人の気持ちを理解することは私たちにはできないでしょう。しかし、その人たちの行動の一つ一つを丁寧に見ていくことはできるはずです。
この聖書に出てくる女性は大勢の群衆に紛れて、イエスに近づき、背後から、その服に触れました。これは、決して消極的な行動ではなく、彼女にできる精一杯の行動だったのです。
最近の風潮の一つとして、積極的に自分をアピールするとか、積極思考で前向きに生きることが正しい生き方であるかのように言われることがあります。素晴らしい生き方だと思います。
しかし、それらは生き方の一つだということです。何でもかんでも、すべてそうすれば良いということではありません。
この箇所においても、堂々とイエスの前に出て行って「病を癒してください」と頼めばよかったのにという方もいらっしゃいます。もし、そうできる環境と気持ちがあれば、そうすればいいと思いますが、この箇所においてはそうではなかったのです。
社会から排除されていた女性が、堂々と人前に出ることは許されませんでした。しかし、彼女は精一杯の行動として「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思っていたのです。彼女にとってイエスの服は「藁にもすがる思い」から出てくる、最後の望みの綱だったのです。
そして、この思いと行動のゆえに彼女の病は瞬時にして癒されました。しかし、これで終わり、めでたしめでたしではありませんでした。肉体的な病は確かに癒されましたが、まだ根本的な解決には至っていませんでした。
癒されたことに意味がないのではありません。とても喜ばしいことです。しかし、根本的な問題として、忘れられていた彼女の存在を回復する必要があったのです。
【あなたを知りたい】
イエスはご自分から力が出て行ったことを感じ「わたしの服に触れたのはだれか」と尋ねました。
この時のイエスの口調はどんな口調だったのでしょうか。チョッと想像してみて下さい。私は少し怒ったような口調で「誰だっ!」と言ったのかと思っていました。
何となく、コソコソと後ろからやって来て、誰にも知られないように、黙って服にさわり、イエスの力を盗んでいったような感じに読んでしまったのです。しかし、現実は私の想像とは正反対のことが起こっていたのだと思います。
このイエスの「だれか」という言葉は「あなたを知りたいのです」という優しさに満ちた言葉なのです。
イエスは「だれか」と尋ねますが、本当は知っていたと思うのです。どこか挙動不審な人が近づいてくると、なんとなく感じると思うのです。イエスは挙動不審な女性を目で追っていたのではないでしょうか。だからこそ、あえて尋ねたのです。それは、自分の中から出て行った力が、その人の内で働くことを一緒に味わいたかったからです。
一緒に味わうということは共同作業をするという事です。千円あげるから勝手に服を買って来いではなく、一緒に買いに行こう。そして、あなたに一番似合う服を一緒に選ぼうよ。という事なのです。
積極的に「私を見て」そして手を置いて祈って、癒してということではなく、イエスの服にさわりさえすればという信仰と、イエスからの「あなたを知りたいのです」という言葉に対する応答を求めておられるのです。肉体的な癒しだけでなく、本当に必要な関係を回復させるという事がイエスにとって一番重要な使命だったのです。
讃 美 新生543 千歳の岩よ 献 金 頌 栄 新生673 救い主 み子と 祝 祷 後 奏