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「恐怖の源」 マルコによる福音書6章14~29節
宣教者:富田愛世牧師
【イエスの噂】
人が有名になっていくと、その人の姿、本当の姿ではなく「噂」のようなものが広まっていくことがあります。それが大きくなると伝説とか神話と呼ばれるようになる事もあります。
新約聖書の時代、イエスについてもそのような噂が広まっていたようです。今日の聖書に書かれているように、ある人は「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言い、別の人は「エリヤだ」とか「昔の預言者のような預言者だ」と言ったとあるのです。
このような噂をする人はほとんど、実際のイエスに会ったことがなく、人から聞いた話を元にして、自分がイメージするイエス像を作って様々な想像をしていたのだと思われます。
バプテスマのヨハネの生き返りだと噂する人たちは、きっとイエスが行った奇跡についての話を聞いた人たちだったのではないでしょうか。人間業ではない、不思議な業、奇跡を行えるのは、やはり神に近い存在だと思っていたはずです。
ですから。このような噂をしていた人たちは、もしかするとイエスを信じる準備のできていた人たちかもしれません。
また、「エリヤ」だとか「昔の預言者のような預言者」だという人たちは律法の成就を待つ人たち、敬虔なユダヤ教徒たちだったと言えるかもしれません。そして「エリヤ」だという人はイエスに対して肯定的な気持ちを持っていたと思われますし、「昔の預言者のような預言者」だと言う人はイエスに対して否定的ではないけれど、積極的に救い主として見ようとはしなかった人たちなのではないかと思うのです。
このような噂がヘロデ王の耳にも入りました。しかし、このような下々の噂に耳を傾けるという事は、ヘロデ王は無能な支配者ではなかったという事だと思います。また、自分の犯してきた犯罪を気に留めないような冷酷な人間ではなかったという事かも知れません。
【ヘロデ王】
ここで聖書には「ヘロデ王」と書かれているので、そのまま用いますが、本名はヘロデ・アンティパスといって、ローマ帝国の一地域であるガリラヤとペレヤを治める領主でした。父親は「ヘロデ大王」と呼ばれる人で、この人もローマ帝国からパレスチナの統治者として任命された人でした。
イエスが生まれた時にユダヤで幼児虐殺を行ったのはこのヘロデ大王で猜疑心の強い人でした。ヘロデ大王には大勢の妻がおり、それぞれ子どもがいたのですが、王位継承の争いや謀反により3人が残り、ヘロデ大王の死後、領地を分割したようです。
ここに登場するヘロデ・アンティパスは16節を見ると分かるようにバプテスマのヨハネの首をはねた男でした。
17節以降に、首をはねた経緯が書かれているのですが、ここに書かれている以上に複雑な経緯があったようです。「兄弟フィリポの妻へロディアと結婚し」と書かれていますが、事実とは少し違ったようです。
ヘロデの妻となったへロディアはヘロデ大王の孫娘で、ヘロデの姪にあたるそうです。そして、兄弟フィリポの妻ではなく、同じ異母兄弟のボエトスの妻だったようです。ちなみに兄弟フィリポの妻はへロディアの娘のサロメだったということです。
このような説明をしたところで、私自身はこの関係性や経緯を正確には理解できてはいません。たぶん皆さんも同じではないかと思います。ただ、バプテスマのヨハネが殺された背後には、複雑な人間関係、政治的な策略があって、ヨハネはその犠牲になってしまったということだと思うのです。
そして当時の政治的な策略や支配者たちの権力に対する欲望が、事柄をどんどん複雑にしていったのではないかと思うのです。
権力者たちは自分の欲望のためには、肉親でさえも、騙したり、陥れたり、最終的には殺してしまったりと犯罪的な行為を行っていたということです。そして、その一つの頂点に登り詰め、地位、名誉、権力、財力を手に入れたのが、このヘロデ・アンティパスという男だったという事なのです。
【ヘロデの恐れ】
このような権力者であるヘロデがバプテスマのヨハネを恐れ、イエスを恐れたのは何故なのでしょうか。それを知るためには、何が人を恐れさせるのかを知る必要があります。
人が何かを恐れる時、第一に恐れるものとして、大きな力に対する恐れというものがあります。
大きな力と言っても一つではなく様々な力があります。暴力と呼ばれるもの、権力と呼ばれるもの、そういったものは恐ろしい力の代表だと思います。実際に自分の身が傷つけられような暴力的力を恐れます。また、言葉の暴力というものもあり、それによって心が傷つけられることを恐れるのです。
権力という力も私たちの自由や権利を奪う時、大きな恐れに変わります。ちなみに憲法は国家権力に歯止めをかけて、個人の人権を保障するものです。ですから憲法は国民が守るべき法ではなく、国民が国家に守らせるべき法なのです。
第二に恐れるものとして、知らないもの、未知なるものに対する恐れがあります。
初めて行く場所に対する恐れや、今までやった事のない事にチャレンジする恐れというものもあります。全く知らない人に会う時、何の恐れも感じない人はいません。見た事も聞いた事もないようなものが目の前に現れたとするならどうでしょうか。
大きな力や未知なるものに対する恐れ、これに共通することが「支配される」ことに対する恐れなのです。自由を奪われ、従わされてしまうのではないかという不安が根底に起こるのです。
しかし、これらが人を恐れさせるものだとしたら、ヘロデ王は両方とも持っていました。ガリラヤとペレヤにおいて、彼は支配者でした。ですから何も恐れることはなかったはずです。
しかし彼は恐れていました。第三の恐れ、それは正しさ、義に対する恐れなのです。そして、これが人間の根底にある恐れなのです。
【恐怖の源】
人がどんなに大きな武力と呼ばれるような力や、権力を手に入れたとしても「義」に対する恐れから逃れることはできないのです。
何故「義」に対する恐れから逃れることができないかと言うと、それは人間に罪の性質が備わっているからなのです。簡単に言ってしまうならば罪を持っているからなのです。
どんなに外面的に取り繕ったとしても、内面にある罪責感からは自由になる事ができません。過去に犯した罪を忘れようとしても、忘れることはできないのです。
そして、何か事があるごとに思い出してしまい、心が痛んでしまうのです。どんなに極悪非道と呼ばれる人でも必ず、この良心の呵責ということに悩まされるはずです。何とかしてそこから逃れたいと思うのですが、逃れることはできません。
ただ一つ、そこから逃れるために出来る事が「悔い改め」という事なのです。「悔い改め」とは方向転換することです。ただ口先で反省すること、謝罪することではありません。今までの生き方を改めて、方向を変えて別の生き方に向かう事なのです。
この別の生き方こそが、本当に畏れるべきものを畏れる事なのです。日本語の漢字というものはよくできたものだと思うのですが、今まで「おそれ」と語ってきましたが、漢字で書くならば「恐怖」という字が当てはまります。
しかし、本当に畏れるべきものを畏れるという時に使う「おそれ」は「畏怖」の「畏」なのです。この漢字には「敬い、かしこまる気持ち」という意味が含まれています。
私たちがその存在を前にして「敬い、かしこまる」べき相手は、キリストである神なのです。神は天地万物を創造され、私たちの気持ちを理解するために人となり、さらに聖霊という形をとり、今でも私たちと共にいてくださり、声にならない叫びを聞き続けておられるのです。
讃 美 新生608 かなたにまばゆき 献 金 頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の 祝 祷 後 奏