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「パンは大切」 マルコによる福音書6章30~44節
宣教者:富田愛世牧師
【言葉の力】
私たちの周りにはたくさんの言葉が溢れています。言葉というものは人間に与えられている、お互いのコミュニケーションに必用なものだと思っています。
他の動物、特にイルカなどはとても知能が高くて、人間には聞こえない高周波の音でコミュニケーションを図っていると言われていますが、それらは本能的なことだけに限られていると思うのです。「敵が来たぞ」とか「こっちに食べ物があるぞ」とかそういった具体的に生きるための道具、ツールの一つだと思います。
人間の言葉というのは、そういった本能的なコミュニケーションにも用いられますが、それだけではなく、便利に暮らすための道具を作ったり、何かの事柄の意味を考えたり、芸術や文化的な事に用いられるといったような、なくても生きていけるけれど、ある事によって、より豊かに生きることができそうな事や物を考えるために必用なものだと思うのです。
また、言葉によって励まされたり、傷ついたりすることがあります。自分の言葉によって人を励ますこともあるし、人を傷つけることもあるのです。「ペンは剣よりも強し」なんていう言葉があるように、その影響力はとても大きなもので、永続性があり、広範囲に及ぶものなのです。
さらに、人はそれぞれに座右の銘と呼ばれるような言葉を持っていると思うのです。明確に意識している人もいれば、意識していない人もいると思いますが、その人を生かす言葉はあると思うのです。
格言といわれるような言葉を座右の銘にしている人も少なくないと思うのです。そして、そういった言葉が、それぞれの人生において、考え方や行動の元になっているのではないでしょうか。
【聖書の格言】
結婚式の披露宴などに行くと、新郎新婦のおじさんや上司のような人が挨拶に出てきて「私の座右の銘は」などと言って話し出すことがあります。
私の場合、クリスチャン関係の結婚式によく行くからかもしれませんが、聖書の言葉を引用する人を時々見かけます。しかし、多くの場合、そういった人は聖書を「格言」の一つとして理解しているようです。その言葉の背景など関係なく字面だけをみて、本来の意味ではなく、道徳的な意味に捉えてしまい、言葉が独り歩きしてしまっているケースをよく耳にするのです。
アメリカのブッシュ元大統領も9.11のテロの後、詩篇23篇を利用して国民感情を煽っていました。「右の頬を打たれたならば、左の頬も出せ」という言葉などは逆の意味で用いられて「右の頬を打たれて、左の頬を出すことができないのだから、目には目を、歯には歯をで報復しても構わない」などという、論理的にめちゃくちゃなことを平気な顔をして語る政治家や学識者がいるのですから、本当に世も末だと感じてしまいます。
もう一つ今日のテーマと関連するものとして「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉があります。イエスが荒野で誘惑にあった時に用いたことで有名な言葉ですが、申命記8章3節を引用した言葉です。
2011年の東日本大震災で最初の時期、ある団体はお弁当と一緒に聖書やトラクトを配り、それを受け取ることを条件にしました。もちろん、それはおかしいのではないかという批判が相次ぎ、しばらくして、そのような団体は支援活動から撤退していきましたが「人はパンのみに生きるにあらず、神の言葉によって生きるのだ」だから聖書やトラクトを配らなければならないと言っていました。
【大いなる誤解】
確かに人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉が必用です。しかし、時と場合によって優先すべきものが何かを考えなければならないと思います。
イエスもパンがいらないと言っているのではありません。ただ、荒野の誘惑の時に腹を満たすことを優先されなかったという事なのです。
聖書の言葉は律法的な掟ではありません。もし律法的な掟だとするなら、あるところでは「パンのみにあらず」と言い、別のところで「パンを用意しなさい」と語るならば、それは整合性のない、矛盾だらけの、不完全な規則になるでしょう。
しかし、聖書の言葉は掟ではなく生活の中から語られた言葉なのです。特にイエスの語られた福音はそうなのです。
人間が生きていくためにはパンが必要です。しかし、パンさえあればそれでいいのかというと、そんなことはありません。他にも必要なものがあり、そのバランスが大切なのです。
この言葉を現代日本版にすると、お金が大切ということになるかもしれません。「お金儲けして何が悪いんですか」と言った人がいます。私はお金儲けしてはいけないと思っていません。クリスチャンであろうが、一般人であろうが、お金儲けしていいと思います。ただ、バランスを崩してしまうと取り返しのつかないことになるのです。
究極的に考えるならば聖書では、この世は仮の姿だと語ります。人はみな旅人で、人生という旅を旅し続け、最終的には神の国に入り、そこで完成すると言います。
仮の姿ではありますが、この経済的な社会も、私たちの肉体も大切なものなのです。ただ「仮」という言葉に含まれている本来の意味を軽く見てしまうことがあるのかもしれません。
この「仮」がしっかりしていなければ、本番に進むことはできないのです。車の免許を取る時も、仮免許をとってから、本試験に臨みます。洋服を作る時も、正確に仮縫いしてから本縫いをします。仮の姿であるこの世の生活を責任もって果たさなければ、来るべき神の国に入ることはできないのです。
【生活する神】
イエスは生きることを大切にされました。一人ひとりの命を大切にされたのです。その証拠に弟子たちと一緒に飲み食いしているのです。この世は仮の姿だからと言って、弟子たちといい加減に過ごしたのではありません。
真剣に弟子たちと向かい合い、律法学者や祭司たちと向かい合い、そして、虐げられている人、いと小さき人々と向かい合っているのです。
人が生きていくためにはパンが必要です。実際に生きているゆえに空腹を満たすためのパンがなければ生きていけません。イエスが語るパンとは一つの象徴でもあるのではないかと思います。
それは生きる事、つまり、苦しみや喜びを表しているのです。イエスを信じ、イエスと共にいる、つまり神と共にいるならば苦しいことがなくなり、喜ばしいことばかりになると勘違いする人がいます。
クリスチャンになれば、良い事ばかりで苦しいことがなくなると思う人がいますが、そんなことはありません。クリスチャンの中にも「神がいるのに、なぜ世の中には不条理な事件や戦争が無くならないのか」と言う人がいます。
よく考えてみてください。なぜそんなことを思うのかと言うと、それは自分の罪を自覚していないからなのです。自分はそんな大きな罪を犯さないと勘違いしているからなのです。
神を信じたとしても人間は罪を犯します。不条理な事件や戦争の原因は神ではなく人間なのです。何でもかんでも神の責任にしてはいけないのです。
神は人間をコントロールするのではなく、愛しているのです。だからパンの大切さを知っているのです。そしてパンの大切さ、つまり生きる事の大切さ、命の大切さを知っている神だからこそ、いつも隣に立って「あなたが大切だ」と語り続けておられるのです。
讃 美 新生137 うみべの野で 献 金 頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の 祝 祷 後 奏