前 奏
招 詞   イザヤ書55章1節
讃 美   新生 120 主をたたえよ力みつる主を
開会の祈り
讃 美   新生322 主イエスのみ前に
主の祈り
讃 美   新生380 罪の世に過ごす
聖 書   マルコによる福音書7章14~23節
                (新共同訳聖書 新約P74)

「人を汚すもの」           マルコによる福音書7章14~23節

宣教者:富田愛世牧師

【禁欲主義】

 この箇所には、ユダヤ教の食物規定に対する、イエスの考え方が表されています。それは、食べ物によって汚れることはないのだから、どんなものでも食べて構わないということです。

皆さんはクリスチャンに対して、またはキリスト教や教会に対してどんなイメージを持っているでしょうか。また、クリスチャンの人たちにとっては教会に来るようになる前、どんなイメージを持っていたのかを思い出してもらいたいと思うのです。

 私の場合、父が牧師だったので、生まれた時から教会にいたわけで、今、皆さんにしたような質問への答えを持っていません。ただ、反対にキリスト教に対する様々な質問を受けることがありました。

「肉を食べてもよいのですか」「牧師は結婚してもよいのですか」「守らなければならない戒律はどのようなことですか」といった行動規範的な質問をよく受けます。その根底には、キリスト教は禁欲主義だというイメージがあるような気がします。

 キリスト教に限らず、多くの宗教に対するイメージとして禁欲主義というものがあるのかもしれません。そして、それは宗教だけではなく倫理観や道徳観という面に現れ、人の言動を支配してきたのではないでしょうか。

 この禁欲主義とは欲望を悪とみなし、それを排除していく行動様式ですが、それだけではなく、欲望に捉われてはいけないという「恐れ」の感情に支配されている状態でもあるのです。

 そして、邪悪なものによって汚されないように、自分を守る鎧のようなものだったのです。

【日本の穢れ】

私たち日本人の精神性の中にも様々な恐れの概念があります。そして、特徴的な事は、この恐れが「穢れ」という概念を生み出しているという事です。

この穢れという事もとても複雑な概念でして、内面的な穢れと外面的な穢れに大きく分けることが出来るのですが、そのように分けて考えるようになったのは、割と最近の話で、昔はそんなこと関係なく、外面的に穢れていれば、内面も穢れていると考えられていたようです。もちろん内面の穢れなどというものは目に見えないわけですから本人以外には分らない事なのです。

また、穢れの起源も諸説あって、元々は平安時代に仏教伝来によって、日本に入ってきたという説が多くの支持を得ているようなのです。そして、仏教においても、その発祥地であるインドにおけるヒンドゥー教の中に穢れの概念があったので、それを受けついでいるとしているようなのです。

しかし、平安時代以前からあった、神道へ発展していく前の土着宗教の中にもすでに穢れの概念がありましたし、古墳時代にもあったのです。

その根底にあるものが「死」に対する恐れでした。死に対する恐れから、死に関連する事柄を忌み嫌い、穢れたものとして、隔離する思想が生まれたようです。

そして、これらの穢れは外から入ってくるもの、つまり、死人に触れるなり、関係を持つと「死」という穢れが自分に入ってくるという恐れがあったのです。ですから「お祓い」という行為が行われるようになるのです。お葬式から帰ってきた時に降りかける清め塩もそういったところに起源があるようです。

いずれにしても、自分の心が穢れているとかそういうことではなく、外からの事でしかないのです。全てが、外からの、何かのせいで穢れが入ってくると考えていたのです。

【イエスの主張】

しかし、日本に限らず世界中どこにでも「穢れ」の概念はあったようで、ユダヤ教においても「言い伝え」として世代を超えて伝わっていたようです。

そんな時代、環境の中でイエスはその思想に対して真正面から異議を唱えました。禁欲的な宗教集団というものは、外から入ってくる「穢れ」を恐れ、それらを門前で阻止しようと努めました。そのためにたくさんの言い伝えが作られるようになるのです。死んだ者に触れてはいけない。触れた者は何日間隔離しなければならない。

また、死に関連するものとして血液に対する汚れもありましたし、病気に関する汚れもたくさんありました。こういった事は際限なく拡がり、食物や職業、そして民族的な差別にまでいたってしまったのです。

当時のユダヤ教徒の間では、食べ物の規程というものが、身近で重要なことでしたが、今のクリスチャンにとっては何があるでしょうか。クリスチャンにとって食べ物の規程というものはほとんどありません。しかし、それに変わるものとして酒やタバコという事が影響しています。

もちろんタバコなどは肉体的に悪影響を及ぼすものですから、吸わないに越したことは無いかもしれませんが、この肉体的に悪影響を及ぼす事と信仰的な事が混同しているのです。酒やタバコは豚肉や牛肉と同じように、信仰的には何の問題もないのです。それは外から入ってくるものだから重要な意味は持たないのです。

イエスは外から入ってくるものが、人を汚すのではなく、人の中から汚れたものが出てくるという主張を展開しました。汚れるということを人のせいにするのか、自分の心の問題として捉えるのかということだと思うのです。

【人の心】

イエスが語ろうとしていることは、福音の本質であり、信仰の本質的な問題なのです。それは、神によって与えられている信仰とは本来、自由なものであるということです。

そして、この信仰の中には神から預かっている肉体を管理することも含まれます。ですから、食べ物の事も大切になるのです。本来、人間の生活は朝、日が昇ると働きに出て、日が沈むと眠る、その間に3回の食事をし、休憩し、昼寝をするという事が理想的なリズムだと思うのです。

これすら守れないのが、私を含めた現代人なのです。だから、不健康な生活をする人を批判したり裁いたり出来ないはずです。

また、クリスチャン以外の人たちがクリスチャンに抱くイメージというものがあります。それらは外からのものであって、本質とはかけ離れたイメージとなるのです。

そして、外からのイメージに合わせようとするなら、必ず歪みが出てくるのです。ゆっくり時間をかければ変る事があるかもしれませんが、大抵は外からのもので、内側を変えることはできません。

つまり、外からのものによって、人の信仰が試されるということはあるかもしれませんが、それによって信仰が生まれたり、反対に無くなったりするようなことはありません。信仰とは心の内の問題であり、与えられるものなのです。

神の働きというものは、人の心の内に働きかけるものであって、他人には見ることの出来るものではありません。そして、その働きは私たちに大きな恵みを与えるものなのです。

讃 美   新生550 ひとたびは死にし身も
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏