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「手当て」 マルコによる福音書8章22~26節
宣教者:富田愛世牧師
【ベトサイダで】
「一行はベトサイダに着いた」という言葉で始まります。この言葉の背景には、13節の「向こう岸へ行かれた」という言葉があります。
ファリサイ派の人々がイエスに「しるし」を求め、議論を仕掛けましたが、イエスはそれを無視して弟子たちと舟で向こう岸へ行かれました。
福音書の中でイエスは何回か「向こう岸へ行こう」と言われています。向こう岸とは、今いる快適な場所にとどまるのではなく、新しい場所、未知な場所に行くことなのです。
それは、地理的な場所ではなく、イエスに従うということを表しているのです。
ベトサイダは未知な場所ではありませんが、そこに「しるし」を求めた答えがあるのです。
マルコ福音書には記録されていませんが、マタイ福音書11章21節とルカ福音書10章13節に「ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば」と語り、ベトサイダの不信仰を指摘しているのです。
つまり、奇跡が行われるという「しるし」を見ることができたとしても、信じられなければ、何の意味もないということなのです。
【連れてこられた盲人】
ベトサイダでは「人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った」のです。
イエスの癒しの業がここで行われるのですが、この癒された人は自分の意思でイエスのところに来たわけではありません。
彼は「癒される」ということに対して、あきらめの気持ちを持っていたのではないかと想像します。なぜなら、目が見えないという現実は、自分の先祖の犯した罪の報いだと思い込まされていたからです。
当時の人たちの中には、体に障害があるということは、その人か、または先祖の犯した罪による報いだという思いがあったのです。
そして、村という共同体から排除されていたはずですから、自分からイエスの前に出て行くことはできなかったのです。
だから、彼は連れてこられたのです。たぶん村にいたおせっかいな人たちによって連れてこられたのです。おせっかいな人たちはイエスに癒しの力があると信じていたのでしょうか。それは分かりません。
もしかすると、イエスの噂を聞いていたはずですから、その力を信じて連れてきた人もいたでしょうが、中には11節との関連で考えると「しるし」を見たかっただけの人もいたかもしれません。
【手を当てる】
どんな人が連れてこられたとか、誰に連れてこられたとか、そんなこととは関係なく、イエスは盲人の手を取って村の外に連れ出し、そして両手をその人の上に置きました。
病気やけがをした人を治す時「手当てをする」と言います。この語源は手を当てるという行為からきています。手を当てることの大切さを私たちは良く知っていると思います。
幼い子どもが熱を出した時などに母はおでこに手を当てます。すると子どもは安心するのです。ケガをした時もそこに手を当ててもらうことによって痛みが和らぐような気がするのです。
今はコロナ感染予防ということで、ソーシャルディスタンスなどと言われて、人との触れ合いが敬遠されていますが、本来、人間には肌の触れ合いが必要なのです。
特に病気など、様々な事情を抱えている人にはなくてはならない行為だと思います。
手を握ってもらったり、ハグしてもらったり、私たちは誰かに触れてもらうことによって安心するのです。
【安心】
この盲人はイエスに触れられたことによって安心したと思います。そして、イエスの癒しの業が行われて目が見えるようになるのです。
しかし、初めはぼんやりとしか見えませんでした。そんな彼にイエスはもう一度触れました。すると今度ははっきりと見えるようになったのです。
ここでの癒しには段階がありました。一瞬で癒されることもありますが、段階を踏むこともあるのです。すべて一律ではないのです。
そして「村に入ってはいけない」と命じました。それは「誰にも言わないように」という言葉と同じように「しるし」だけに興味をもって「しるし」を求めるということに対して釘を刺しているのです。
その後、家に帰されました。そこには今まで失っていた関係が回復されるという、この人にとって最善の結果「しるし」が待っていたのです。
讃 美 新生495 主よ み手もて 献 金 頌 栄 新生668 みさかえあれ 祝 祷 後 奏