前 奏
 招 詞   マラキ書3章1節
 讃 美   新生 8 主の呼びかけに
 開会の祈り
 讃 美   新生 92 喜びたたえよ
 主の祈り
 讃 美   新生205 まぶねの中に
 聖 書   マルコによる福音書9章2~13節
                  (新共同訳聖書 新約P78) 

「イエスに聞け」           マルコによる福音書9章2~13節

宣教者:富田愛世牧師

【誰を礼拝するのか?】

 先週のクリスマス礼拝では、マタイ福音書を通して東方の占星術学者たちが救い主として誕生した幼子イエスに礼拝を捧げた箇所をお読みしました。

今日のマルコ福音書はクリスマスの出来事が記録されているわけではありませんが、イエスを礼拝するということが、一つのテーマとなっています。

そういう意味で、先週からの続きとして見ることができます。そして、ここではイエスが十字架への歩みを始めるにあたって、弟子たちの前で、その姿が変わるという印象的な出来事が起こり、礼拝へと招かれていることが示されているのです。

私たちが礼拝するべきお方は唯一の神です。聖書はこの唯一の神について、様々な特徴を記していますが、この箇所では、私たちが礼拝するべき子なる神である、イエスが誰なのかを示しています。

イエスは真っ白に光り輝く衣を着たお方、これはわたしの愛する子と神が宣言される方、苦しみを受け、辱めを受ける方なのです。

モーセとエリヤが登場しますが、この二人は律法と預言者を代表しています。この二人の前で、神はイエスを愛する子と宣言されたのです。

それは父と子という二人の人格が存在するということではなく、父と子は一体ですが、その働き方が違うだけなのだということを示しているのです。そして、律法と預言がイエス・キリストにおいて成就したということを宣言しているのです。

【なぜ礼拝するのか?】

東方の占星術学者たちがイエスを礼拝した時、その理由は神の子である尊い存在を目の前にした時、その前にひざまずき、拝したという、自然な行為をもって礼拝したわけですが、今日の個所でもペトロは「どう言えばよいのか、分からなかった」と書かれています。

どちらも、礼拝するという意識をもって、礼拝したわけではなく、自然と礼拝する姿勢へと導かれていったように感じます。でも、それが大切なのではないかと思うのです。

礼拝の目的は、神との関わりを持つということです。創世記に書かれている天地創造の業の締めくくりとして人間が創られました。その時、神はご自身の愛の対象として、人間を創られたのです。

愛とは関係性、関わりを持つということです。ですから、神は人間と関わりを持ち、自由に語り合えたのですが、人間は自己主張をするようになり、神との約束を破り、神との関わりを裏切り、神との間に深い溝ができてしまったのです。

しかし、そのままの状態で良いとは思わず、関係を修復するために、独り子イエスをこの世に送り、イエスを信じることによって、壊れてしまった関係を回復しようとされたのです。

そのイエスを礼拝するということが、神との関係を回復し、関わりを持ち続けるために必要な行為となったのです。ですからイエスを礼拝するということは、私たちに与えられた特権なのです。

【どのように礼拝するのか?】

クリスマスの出来事の中で東方の占星術学者たちが行った礼拝や今日の個所でペトロが「仮小屋を三つ建てましょう」と語ったことなども一つの礼拝のスタイルだと言えるように、礼拝の方法には、実に様々なものがあります。

一番シンプルなものとして、詩編121編1~2節に「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」と書かれていて、山や自然界の被造物を見る時、それらを造られた創造主を思い起こすことが礼拝になると思うのです。

また、一般的なものとしては、今まで私たちが行ってきた「主日礼拝」という共に集まって行う礼拝があります。

だたし、これも今、コロナ危機の中にあって、集まるということが難しい中で、オンライン礼拝のように直接、顔と顔を合わせるのではなく、様々な通信手段を用いた形で画像や音声を共にして集まるという方法もとられているわけです。

どれが正解というのではなく、その時々に合わせ、その人がどういう状態なのかによっても、変化することができるし、変化してもいいというのが私たちに与えられた礼拝なのではないかと思うのです。

さらに、もし、間違ったとしても、それにダメ出しをする神ではなく、間違いでも、それを受け入れてくださったり、ある時には間違いを正してくださるのが、私たちの神なのです。

【イエスに聞く】

5節でペトロは「仮小屋を三つ建てましょう」と言いましたが、ここで神が求めていたのは何かすることではありませんでした。神が求めていたのは「聞く」ことだったのです。

しかし、この聞くということが意外と難しいのです。日本人には因果応報という考え方が根付いていますが、ペトロも似たような考え方をしていたのではないかと思うのです。

因果応報というと、悪いことが起こる原因は、自分や先祖が悪いことをしたから、その報いで今悪いことが起こると考えることが多いのですが、その反対も然りなのです。つまり、良いことが起こってほしいと願うならば、自分が良い行いをしなければならないということです。

しかし、聖書に書かれている神は、人間の行いが良いから良い結果を与えるという神ではありません。一方的に恵みを与えようとしておられるのです。

私たちの応答によって、恵みを与えるのではありません。ですから、神は7節で「これはわたしの愛する子。これに聞け」と言って、イエスの言葉に耳を傾けることを求めているのです。

イエスの言葉を聞くことによって、私たちは神を知ることができるし、神からの恵みを実感することができるのです。

 

 讃 美   新生568 この旅路は険しいけれど 
 献 金   
 頌 栄   新生668 みさかえあれ
 祝 祷  
 後 奏