前 奏
 招 詞   詩編50編14~15節
 讃 美   新生 3 あがめまつれ うるわしき主
 開会の祈り
 讃 美   新生 71 年の始めは
 主の祈り
 讃 美   新生445 心静め語れイエスと
 聖 書   マルコによる福音書9章14~29節
                  (新共同訳聖書 新約P78) 

「闇からの解放」           マルコによる福音書9章14~29節

宣教者:富田愛世牧師

【身近な人】

 今日の箇所は、イエスの姿が栄光に光り輝くという、特別な体験をしたすぐ後の出来事です。そんなイエス一行を待ち構えていたのが、群衆と律法学者たちによる非難でした。

そこには、霊に取りつかれ、話すことが出来ず耳も聞こえない少年の父親がいました。この父親は子どもから霊を追い出してもらいたいという願いを持って、イエスの弟子たちのところにやってきたのです。

 しかし、弟子たちには霊を追い出す力がありませんでした。なぜ彼は直接イエスのところに行かず、弟子たちのところへ行ったのでしょうか。

もちろんイエスは山に登っておられたからかも知れません。時間的なことだけを考えればそれだけのことです。しかし、ここには人間の習性のようなものがあるのです。

それは罪を持っている人間は直接、神の前に出ることに躊躇するということです。神の前に行こうとしても、罪の働きによって妨害されてしまうのです。

神に向かって直接祈ればいいのに、内容や言葉、方法等を気にしてしまい祈れなくなることがあります。しかし、神に対する祈りは方法や内容、言葉ではなく、どんな時でも神を思い浮かべるなら、それが祈りであるはずです。にも拘わらず、型どおりの祈りになっていなければ「祈れない」と言ってしまうのです。

「祈れない」と言っていること自体、本当は祈りなのです。しかし、罪が「それは祈りじゃないよ」と囁いて、その言葉を信じてしまうのが、罪ある人間なのです。

 祈れないし、神の前に出られないと思い込んで、私たちは何をするのでしょうか。身近な友人に相談してしまうのです。そして、根本的な解決が出来ていないのに、解決できたような気になってしまい、それで終わりにしてしまうのです。厳しい言い方をすれば、罪に罪を重ねる結果になってしまうのです。

【おできになるなら】

弟子たちには霊を追い出すことが出来ないと知って、次にこの父親はどういう態度に出たでしょうか。

それで終わりにしてあきらめるのではなくイエスに相談します。ただ、聖書を読むと父親が直接イエスのところに行くのではなく、群衆の一人が答え、イエスが「その子をわたしの所に連れてきなさい」と呼んでくださったのです。

そして、今までのいきさつをイエスに話し「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願うのです。

この願い方は一見、謙虚な願い方に聞こえるかも知れません。しかし、確信を持っていない証拠なのです。

私たちもよく同じ事をしてしまいます。祈りの結果がある程度、分かってきた時に「やっぱりね」と言って諦めてしまうことがないでしょうか。人間にとって期待を裏切られることは、とても大きなショックです。この父親もきっと、今までに、たくさん裏切られる経験をしてきたのだと思います。

だから、自分が傷つかないようにと、自己防衛的に「おできになるなら」という言い方を用いたのだと思います。

しかし、神の前に祈る時、そのような態度で祈るならば、その祈りは聞き入れられません。神の前に祈る時、バカにならなければならないと私は思っています。

この世の常識から自由になるということです。そして、自由になって、バカになった者だけが神のみ業を目にすることが出来るのです。

【信仰のない私】

イエスもこの父親の言葉に対して「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と諭されました。イエスにとって霊を追い出すということは「できれば」という仮定の出来事ではないのです。神のみこころに適ったことであり、必要なことならば、信仰によって何でもできるのです。

この言葉に対して、父親はすぐに叫んで「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と言っています。何かを考えたりするのではなく「すぐ」に、それも「叫んで」いるのです。この父親の必死さが伝わってくる言動だと思うのです。そして「信じます」というハッキリした信仰の告白をするのです。

さらに「信仰のないわたし」と告白しています。この言葉は信仰を持っていない自分自身の告白と同時に悔い改めの言葉なのです。自分はダメだとダメ出しをしているのではなく、信仰を持っていると思い込んでしまう思い上がりを悔い改める必要があるのです。

私はこの悔い改めの言葉が非常に大切だと思っています。私たちは不完全な人間です。ですから、すぐに間違いを犯してしまうのです。

イエスは私たちに「間違えるな」とおっしゃるのではありません。そうではなく、間違えた時には、すぐにそれを訂正しなさいと教えられるのです。さらに、この父親は「信仰のないわたしを、赦してください」とは言わないで「お助けください」と言っています。

今の状況、すなわち暗闇の中にいる状況から救い出して欲しいと願っているのです。自分の息子を助けて欲しいのです。

この父親の悔い改めと信仰の告白はその場を取り繕うものではなく、本当に切実なものだったのです。このような切実な願いと信仰の告白によって、この少年から霊は出て行きました。

【祈り】

28節には、弟子たちがこの光景を見て「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と質問しています。

それに対するイエスの答えは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」というものでした。

この言葉から祈りの大切さという事が教会の中でよく言われています。しかし、多くの場合、その本質が抜けてしまって、形だけの祈りに終始してしまうことがあるのです。

イエスがここで語っておられる「祈り」とは、何かの集会の前に祈りを持って始めるようなものや週の半ばに祈祷会といって集まるようなものではありません。形式的な事柄や言葉ではないのです。

そうではなく私たちの生活そのものなのです。私たちが神と共に生きるという現実が祈るという事なのです。つまり私たちの生活の中で「神」を最優先していくという事なのです。

何をするにも「神様、神様」なんて考えていたらノイローゼになってしまうと思われるかもしれません。確かに無理やりそうすれば病気になってしまうかもしれません。しかし、神はイエス・キリストにおいて、いつも私たちと共にいてくださると約束しておられます。「いてください」ではなく「いてくださる」のです。

この祈りによるならば、不可能が可能になっていくのです。なぜなら神が一緒にいるからなのです。私たちは様々な場面で、祈りがどれほど人に勇気と励まし、慰めを与えるかを忘れてはいけないのです。自分ではどうしようもない、何も出来ないと思うことに出会った時ほど、そのことを実感できるのです。

霊に取りつかれていた少年とその父親は、霊的な暗闇の中に縛られていました。サタンの業というものは否定的な思いしかもたらしません。しかし、神からの思いは、常に肯定的で、暗闇から解放してくださる力なのです。

  讃 美   新生661 聞け 主のみ声を 
 献 金   
 頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
 祝 祷  
 後 奏