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「イエスの前に叫べ!」 マルコによる福音書10章46~52節
宣教者:富田愛世牧師
【ふさわしい者】
私たちの周りでは様々な事に対して「ふさわしさ」が求められます。しかし「ふさわしさ」とはいったいどういうことなのでしょうか。
私は学生時代に、夏休み前などによく先生から「当校の生徒としてふさわしい生活態度で過ごしましょう」と言われましたが、どういったことが、当校の生徒としてふさわしいのかが分かりませんでした。学校の立場としては、とにかく問題を起こさないで欲しいということだったのでしょうが、どうにも納得の出来ない言葉でした。
「ふさわしさ」に似た言葉として「らしさ」という言葉もあります。最近ではジェンダー論の影響でその意味が問われるようになって来ました。男らしさや女らしさという言葉にも共通する不可解なものがあるように感じるのです。
特別な定義や意味もなく、ただの言い伝えやその時々の状況に応じた都合の良さから生まれた価値観が、まるで伝統的で普遍のものであるかのように語られてしまうのです。
冷静に見ていくならば、多数派の価値基準に合うものが「ふさわしさ」として、もっともらしく語られるのではないかと思うのです。
外からのものだけでなく、自分の中で「ふさわしさ」を作ってしまうこともあります。「教会に来ませんか」と誘うと、決まって返ってくる答えの一つに「私なんかふさわしくないから」という答えがあります。たぶんその人の持っている教会のイメージがあるのだと思います。
【小さな者の叫び】
そんな私たちに対して、今日の聖書は一つの問いを投げかけているのです。今日の聖書には3種類の人々が登場します。最初は当然のことですがイエスです。次に弟子たちを含む「群衆」がいます。そして、最後にこの箇所のもう一人の主役であるバルティマイという盲人です。
実はマルコ福音書において、これが最後の癒しの記事なのです。そして、癒しの場面において、癒される人の名前が出てくるというのはとても珍しいことなのです。それくらい、この出来事には重要な意味が込められているのです。
この男は目が不自由であったため、一般的な仕事に就くことができず、物乞いをしていたようです。いわゆる社会の底辺に位置する人だったのです。
その日、イエスは大勢の群衆と共にエリコの町を通ってエルサレムに行こうとしていました。通りを歩いているとナザレのイエスが来たと言う事で、そこで物乞いをしていたバルティマイがイエスに向かって叫びだしたというのです。人々は、すぐに彼を叱って黙らせようとしましたが、黙らせようとすればするほど、いっそう激しく叫んだようです。
バルティマイにとって「叫ぶ」という行為は、本当に必死な行為だったと思います。目が不自由ですから、どこにイエスがいるのか分からないのです。その場の雰囲気で、こっちかな、あっちかなと探りながらも、ぜんぜん分からないわけです。ですからとにかく大きな声で叫び、騒ぎ立てて注目を集めるしかなかったのだと思うのです。
バルティマイには叫ぶしか、すべがありませんでした。しかし、この叫びは決して無駄な叫びではないのです。イエスの前には、このような小さな者の叫びが届くのです。この小さな叫びが届くと言うことがイエスの語られる福音なのです。それは、仕えられることを望むのではなく、かえって仕えることに感謝と喜びを持ちなさいということでした。
【人々の反応】
しかし、福音は簡単には人々に受け入れられませんでした。ここに登場する群衆はガリラヤからイエスに従ってきた人々に加え、エリコの町に入ってからついてきた人々だったと思われます。
彼らはイエスの行った奇跡を見聞きし、その語られた福音を直接聞いたり、人づてに聞いたりして、共感を持ち、この方こそ信頼して従うに値する方であると確信してついてきたはずです。決して意地悪な人々ではなかったはずです。
しかし、バルティマイの身の程をわきまえないような行動に対しては嫌悪感をあらわにしているのです。バルティマイのとった行動は、群衆の目には「ふさわしくない」態度に見えたのです。
イエスの前で取り乱して、騒ぎ立てるなんて、無礼な事だと考えたのだと思います。そして、それ以前に物乞いをしているような者は、イエスの前に出るにはふさわしくないと考えていたのかも知れません。
もちろん群衆にとって、それはイエスに対する配慮だったかも知れません。しかし、それはイエスの使命、目的を理解していないが故の行為だったということなのです。
【あの男を呼んで来なさい】
49節をみると、イエスは立ち止まって「あの男を呼んで来なさい」と群衆に命じられました。これは群衆に対する命令と同時にバルティマイに対する招きの言葉なのです。
この言葉を聞いた群衆の態度は一変します。今までは叫び続けるバルティマイを黙らせ、排除しようとしていましたが、イエスの言葉によって排除するのをやめ「喜べ」と素直にその言葉をバルティマイに伝えているのです。
この喜びの共有こそが、群衆の心が変えられたことの証拠なのです。喜ぶ者と共に喜ぶ事が福音の本質なのです。
バルティマイは「上着を脱ぎ捨て、踊りあがって」イエスのもとに行きました。上着とは、今まで物乞いをする時に敷いていたものを指しています。つまり、今までの生活を捨て、新しい生活を手に入れる事を表しています。
さらに、彼は踊りあがっています。イエスの呼びかける声に従った時、不自由な体が踊りあがるまでに回復しているのです。もしかすると、この時点ですでに目が見えるようになったのかも知れません。自分では気づいていないかも知れませんが、すでに見えるようになったから自由に動けたのではないかと思うのです。
さらにイエスは「何をしてほしいのか」と問いかけました。もちろんイエスには分かっていたのですが、ハッキリと自分の口で答えさせて、その願いを確認させているのです。
一見、意地の悪い質問のようにも感じるかもしれませんが、この確認はとても大切なことなのです。時々、私たちは自分の願っていることが何かを忘れてしまうことがあります。そんな時にはハッキリと確認しなければ、本当に大切なことを見失ってしまうのです。
イエスはバルティマイの願いを確認させ「あなたの信仰があなたを救った」と宣言され、その願いをかなえられました。彼の目はハッキリと見えるようになったのです。その後、彼はイエスに従って行ったということです。
バルティマイの行為は冷静に見ていくならば、常識はずれで、褒められたものではないように見えるかもしれません。しかし、聖霊の働きによって「そうせずにはいられない」衝動にかられたものなのです。
信仰による行為には様々な表現方法がありますが、これも大切な一面を表しているのです。
叫ぶより他に、何もなす術がない時、叫べばよいのです。誰に何を言われても主の前に叫ぶことをイエスは許してくださるのです。そして、その叫びを必ずイエスは聞いていてくださり、答えてくださるのです。
讃 美 新生661 聞け 主のみ声を 献 金 頌 栄 新生671 ものみなたたえよ 祝 祷 後 奏