前 奏
 招 詞   エレミヤ書8章13節
 讃 美   新生13 ほめまつれ 主なる神
 開会の祈り
 讃 美   新生137 うみべの野で
 主の祈り
 讃 美   新生281 御座にいます小羊をば
 聖 書   マルコによる福音書11章12~25節
                (新共同訳聖書 新約P84) 

「信じるということ」        マルコによる福音書11章12~25節

宣教者:富田愛世牧師

【イエスの姿】

今日の聖書には2つの出来事が書かれているので、2回に分けることも考えたのですが、テーマとしては一つの事柄が記されているのです。ですから、別々に語るよりは、少々長いですが一気に読んでしまったほうが、流れも分かるし、内容的にも理解しやすいと思いました。

この2つの出来事に共通するテーマとは、イスラエルの不信仰と信じるとはどういうことなのか、ということなのです。

そして、ここには今までとは違ったイエスの姿というものが出てくるのです。と言うより、私はより現実に近いイエスの姿が描かれているのではないかと思っています。

多くの方が想像するイエスの姿は、西洋の宗教画等に描かれている、肌が白く、きゃしゃで、優しそうな姿だと思います。しかし、聖書によれば、30歳までは大工をしていたのですから、肌は日に焼けていたでしょうし、体格もがっしりしていたはずです。だから、神殿の境内で商人や両替人たちの台をひっくり返すことが出来たのだと思うのです。

また、奇跡についても、イエスの破壊的な一面が出てくるのです。これまでイエスが行った奇跡は、癒しや食べ物を与えるような生産的な事でした。しかし、ここではイチジクの木を呪い、枯らしてしまうという破壊的な業を行います。

このようなイエスの姿につまづく人もいるでしょう。しかし、商人や両替人の台をひっくり返し、イチジクの木を呪うという表面的なことに目を奪われるのではなく、その意味を聖書全体からくみ取らなければならないのです。

【枯れたいちじく】

それでは、11節から見ていきたいと思います。「翌日」というのは「ホサナ」と言う歓声に迎えられ、エルサレムに入城された次の日の出来事だということです。

イエスはベタニヤからエルサレムに行こうとされましたが、途中で空腹を覚えられたようです。ここに人間イエスの姿、それこそ現実に近い姿が描かれています。

そして、この場所というのは、先週の箇所に出てくるベトファゲだったのではないかと私は想像します。ベトファゲとは、未熟ないちじくの所という意味があったので、このような出来事が起こるのにふさわしいと思うのです。

ここでイエスは葉の茂った1本のいちじくを見つけました。このいちじくは見た目には、いかにも豊かな実を実らせそうな姿でそこに立っていたのです。

しかし、イエスが近づいて見ると、一つも実が成っていなかったということです。ここでマルコは「季節ではなかった」と書いていますから、イエスが無茶な要求をしたと思うかも知れません。しかし、これは決して無茶な要求ではありません。

なぜなら、イエスは一晩中、漁をして何も獲れないところに大量をもたらし、5つのパンと2匹の魚で5千人を養われた方なのです。

ここで注目すべき点は、多くの実を実らせそうに見せかけているけれど、何も実らせないこのいちじくの偽りの姿なのです。そして、この姿はそのままイスラエルの姿、そのものだとイエスは批判されるのです。

イエスはこの木を呪われました。そして、次の日、そこを通るとその木は根元から枯れていたというのです。つまり完全に破壊されてしまったことを意味し、神の裁きの警告を示しているのです。

【宮きよめ】

もう一つの出来事はエルサレム神殿での出来事でした。この神殿はイエスの語るとおり「祈りの家」であるはずでした。しかし現実には祈りの家どころか「強盗の巣」になっていたと言うのです。

この箇所から教会でバザーをしたり、礼拝堂で飲み食いしたりすることを反対される牧師もたくさんいます。しかし、イエスは神殿で商売することを禁じているわけではありません。

当時、神殿で捧げるものは犠牲の動物にしろ、お金にしろ、すべて聖別されたものでなければなりませんでした。家から持ってきた動物ならば傷がないか、病気でないか、厳格に調べたようです。

しかし、神殿で売っている動物は祭司によって清められているので、そのまま捧げることができました。また、お金もローマの貨幣は汚れたものだということで、捧げ物に使えず、代わりに神殿で発行している貨幣に両替をしなければならなかったようです。

つまり、自分の持てるものを捧げるということではなく、祭司たちに決められた律法主義的な捧げ物に変質していたのです。

商人や両替人たちは神の名を利用して貧しい者たちを食い物にしていたという事なのです。そして、祭司たちはその事実を知りながら、改善することをせず、かえって自分たちもそこから不当な利益を得ていたという事なのです。

さらにイエスは「すべての国の人の祈りの家」と語っている点に注目しなければなりません。この商人たちがいた場所は、神殿の一番外側にある「異邦人の庭」と呼ばれる所でした。この内側に「女性の庭」「ユダヤ人の庭」そして祭司だけが入れる「聖所」がありました。

しかし、イエスはすべての国の人の祈りの家だと宣言するのです。これは単なるイエスによる神殿改革ではなく、新しいイエスと共に始まる時代の到来を意味するのです。イエスは祭儀を中心とする犠牲による神礼拝の終わりを告げているのです。

【信じるということ】

この2つの出来事を通して、イエスは弟子に向かって「神を信じなさい」と語られました。

ここでイエスは敢えて「神」という言葉を使っています。イエスの語る神は全知全能のお方です。何でも知っているのです。私たちが「ああしてください、こうしてください」と言う前にすでにもうご存知です。

そして、いつも私たちの前を歩んでくださるお方なのです。だからここに書かれているように「すでにかなえられた」と信じることが大切なのです。

祭儀的なことを中心にして「こうしなければ神は喜ばれない」という時代はもう終わったと語られるのです。犠牲を捧げて神をなだめる事も必要ないのです。

日本的な宗教観の中には、自分が犠牲になることを良しとする考え方がありますが、私たちはそんなに偉い存在なのでしょうか。ハッキリ言って、私たちには神に喜ばれるような犠牲を捧げることは出来ませんし、神もそんなことは望んでおられません。

だからこそ、最後のところに「立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」と書かれているのです。

しかし、赦しは救いの条件ではありません。これを読んで、本当に赦すことが出来ますか。「できる」と言うところに人間の傲慢があるのです。私たちは、出来るようになりたいと願い、努力するのです。そのこと自体はとても尊い事です。

しかし、真剣に取り組めば、取り組むほど、本気で赦そうとすれば、するほど、心の奥底で赦す事の出来ない自分に気づくのです。

もちろん表面的に「赦します」と言う事は出来ます。しかし、心の底には苦い思いが残るのです。当然です。赦さなければならないという事は、相手の言動によって自分が傷つけられたのですから。だからこの気づきが大切なのです。赦す事の出来ない自分が赦されているとイエスは宣言してくださるのです。ここまで来ると、私たちに出来る事は、ただ信じる事しかないのです。

 
  
 讃 美   新生491 信ぜよ み神を 
 主の晩餐
 献 金   
 頌 栄   新生673 救い主 み子と
 祝 祷  
 後 奏