前 奏
 招 詞   ゼカリヤ書4章10節
 讃 美   新生13 ほめまつれ 主なる神
 開会の祈り
 讃 美   新生222 罪なきその身に
 主の祈り
 讃 美   新生235 栄えの主イエスは
 聖 書   マルコによる福音書12章1~12節
                (新共同訳聖書 新約P85) 

「捨てられた神」            マルコによる福音書12章1~12節

宣教者:富田愛世牧師

【たとえ話】

今日の箇所は11章で語られていた「何の権威によって」と言う質問に対してイエスが譬えを用いて答えられたようになっています。ここを読んでいくにあたって、まず譬えとはどういうことかを思い出してみたいと思うのです。

日本語における譬えという言葉の意味は「ある事柄・物を分かりやすく説明するために、それに似かよった物事を引き合いにだす」事と辞書に書いてありましたが、聖書が書かれたギリシャ語においては寓喩、格言、ことわざ、謎をも含んだ、より広い意味で用いられています。

そして、この箇所においては寓喩として語られています。寓喩という言葉はあまり耳にしない言葉だと思います。私もあまり耳にしたことがなかったので調べてみると「ある物事を比喩を用いて一つの話にまとめ風刺、教訓などを暗示的に表す文芸の技法」と書かれていました。

つまり、譬えている物や事柄を直接比喩するのではなく、隠しているということなのです。

ここでは、これから起こるイエスの受難を直接語るのではなく、ぶどう園での出来事に隠して語っているのです。「ある人が」という出だしで語られますが、このある人とはぶどう園の主人であり、これは神のことを指しています。

そして、ぶどう園とは神によって選ばれ、神の国を実現するイスラエルのことを指し、そこで働く農夫とはイスラエルの指導者たちを指しています。僕とは旧約聖書に出てくる預言者たちを指し、愛する息子はイエス・キリストを指し、最後に出てくる隅のかしら石は苦しみを受け復活し、教会の礎石となったイエス・キリストを指しているのです。

 このように一人ひとりの登場人物や場所が、それぞれに当てはめて、隠されているということを心に留めて読んでいきたいと思います。

【ぶどう園】

さて、ここである人がぶどう園を作るところから、この話は始まりますが、ぶどう園の作り方がやたらと丁寧に述べられていることに気づくと思います。当時の農園経営は大地主のような人が農夫を雇い、その農夫たちが収穫したものから、借地権料を徴収していたそうです。

この事は律法にも定められていて、律法の規定によれば、農園主は農夫たちに農地を貸すわけですが、最初の5年間は借地権料を徴収してはいけなかったそうです。

その理由として、農地は貸しますが、その農地はただの土地で、ここにあるように「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」るのは農園主の仕事ではなかったようです。一般的な農夫たちは、そこから始めて、次の段階として作物を植えていたようです。

また、日本でも「桃、栗3年、柿8年」と言いますが、ぶどう等は苗を植えてすぐに収穫できるのではなく、何年か経たなければ収穫できませんから5年間の猶予期間があったようです。

しかし、ここに登場する農園主は自分で「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」それを農夫に貸したということなのです。農夫たちが働くための環境を整えて、すぐにでも収穫が期待できるような農園を貸したということなのです。

そして、この農園主は農夫に農園を貸した後、「旅に出た」とあります。これは、貸しっぱなしで、ほったらかしにしたということではなく、農夫たちに任せているということです。農夫たちを愛し、彼らの自由にさせたのです。彼らを信頼していたということを表しているのです。

【収穫の季節】

やがて収穫の季節となりました。何年後の事かは分かりませんが、農園主のところにも収穫があったことが知らされたのです。

この主人は農夫たちから法外な取立てをしようとしたのではなく、合法的な、当然受けるべき分け前を請求したのです。そのために僕を農園に送りました。しかし、最初の僕はふくろ叩きにされ、何も持って帰ることが出来ませんでした。

こんな話を聞くと、とんでもない農夫たちだと腹を立てると思いますが、当時はこのような形で農夫たちが反乱を起こすことがしばしばあったようです。でも、もし私がこの主人だったとしたなら、すぐに出向いて行って、この農夫たちを追い出したと思います。

しかし、このたとえ話では、もう一度、僕を送っているのです。今度は頭を殴って侮辱したということです。そして、3度目の正直なのか、2度あることは3度なのか分かりませんが、3人目の僕を送るのです。今度はその僕は殺されてしまいました。

3回もこんなことが起こったなら、どんな人も堪忍袋の緒が切れて、農夫たちを追い出すと思いますが、この主人は忍耐して、さらに多くの僕を送ったということなのです。 

忍耐深いという事を通り越して、読んでいる者としては、この主人の態度にまで、腹立たしさを覚えるのではないかと思います。しかし、神はこれほどまでに忍耐深く人が悔い改めるのを待っておられるのです。

最後に自分の息子は敬ってくれるだろうと思い、愛する息子を送るのです。しかし、農夫たちは「跡取りを殺してしまえば、農園は自分たちのものになる」と考え、その子を殺してしまうのです。ここまで来て、やっとこの主人は農夫たちを殺して、農園を他の者たちに与えました。

この農夫たちは、思い上がり、農園の主人になろうとして、農園主のひとり子を殺してしまいました。自分たちの身の程を知らずに、神に逆らって、身の破滅に落ちていく人間の姿がここには描かれているのです。

【隅のかしら石】

神は愛をもってイスラエルの指導者たちに接し、信頼してイスラエルという国の管理を任せました。そして、収穫というのは神の期待に応えるということですが、その期待は裏切られてしまいます。

しかし、神は忍耐をもって、何度も何度も預言者を遣わし、誤った道から戻るように勧めるのですが、イスラエルはかたくなに神の申し出を拒否し続けたのです。

最後に神はご自分のひとり子をイスラエルに遣わします。しかし、イエスも十字架に架けられ殺されてしまいました。愛し、信頼していたイスラエルに裏切られ、結果的には神の福音は異邦人たちに与えられるという結末に至るのです。

マルコ福音書では、このたとえ話の最後に詩篇118編22~23節が引用され、締めくくられますが、ここに福音の本質が隠されているのです。

イエスの生涯は十字架によって終わります。この事実を見る時、負け組みとなるのです。人々から「何だ、たいしたことないじゃないか」「役に立たないじゃないか」とののしられ、捨てられてしまったようなキリストですが、神はそのような、どん底の状態からキリストを引き上げられました。

人々の目から見るならば、捨てられた石なのです。しかし、その捨てられた石が隅のかしら石となるのです。この「かしら石」には2種類の意味がありますが、どちらもなければならない重要なもので、その建造物の要となるものです。

一つは土台となる石の一つで、家全体の重みがかかっても、それに耐えうるような固い石のことです。そしてもう一つの意味は、石でできた門、アーチの一番上にある石のことです。この一つの石がなければアーチは崩れてしまうのです。

私たちの人生は成功した、栄光に満ちたものだけではありません。多くの場合、失敗し、敗北し、人々から捨てられ、忘れ去られるような経験をするのです。しかし、そのような敗北感、挫折感といった自分の無力を感じる事柄の只中に、イエス・キリストの姿を見ることが出来るのです。そして、イエス・キリストを見つけた時、そこに神の国があるのです。

  
 讃 美   新生620 主と共に歩まん 
 献 金   
 頌 栄   新生673 救い主 み子と
 祝 祷  
 後 奏