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「善人の化けの皮」 マルコによる福音書12章13~17節
宣教者:富田愛世牧師
【人々】
今日の箇所は「さて、人々は」という言葉から始まっていますが、この「人々」とは一体誰を指しているのかを正確に理解しなければ、まったく意味を取り違えてしまうことがありますので、ここから見ていきたいと思います。
マルコ福音書では「群衆」とか「人々」と言う言葉がよく出てきます。そして、今までのところではイエスを歓迎したり、イエスに良い意味で興味を持つ「群衆」「人々」が登場していましたが、11章以降、そうではない「人々」が登場します。
それがどのような人々かと言うと、イエスがエルサレムに入城し、群衆の歓迎を受けたことを快く思わない人々であり、神殿から両替人や商売人たちを追い出したことに反感を持つ人々でした。
それはユダヤの祭司長たち、律法学者たち、長老たちです。彼らはイエスに対しては敵対者でしたが、彼らは決して極悪人ではありません。今こうして聖書を読んでいる私たちから見るならば、意地の悪い人々のように映りますが、当時のユダヤの民からは信頼され、模範とされるような、善良で、知恵に優れた人々だったのです。もちろん中には悪い人もいたでしょうが、その大半は優れた指導者たちだったと思うのです。
しかし、そんな善良な、優れた指導者が、時として邪魔者の殺害を計画してしまうのです。キリスト教会と関係の深い歴史から見ても、宗教改革の時期には、多くの国教会の指導者たちは改革者たちを迫害し、殺害してしまうような行為に出ました。20世紀に入っても悪名高き独裁者であるナチスドイツのヒトラーは敬虔なクリスチャンで、若い頃は神学校にも行き、牧師になろうとしていた人でしたが、最終的には残忍な人間の代名詞のようになりました。人間の価値観の中で、何が善で、何が悪なのかは本当に難しい問題だと思います。
イエスはそんな善良で、優秀な指導者たちのターゲットとなってしまいました。そして、彼らは善良な人々なので、無秩序な暴力で、その計画を実行しようとはしません。合法的な方法で邪魔者を抹殺しようと計画を練っていたのです。
【ファリサイ派とヘロデ派】
権力者が邪魔者を抹殺しようとする時、多くの場合、自分たちの手を汚そうとはしません。これまた、善良で、真面目な人々を利用するのです。善良な人々は、その真面目さゆえに簡単に利用されてしまうようです。
ここではユダヤの指導者たちはファリサイ派の人々とヘロデ派の人々を利用しているのです。ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々は普段は対立関係にありました。
ファリサイ派とは皆さんもよくご存知のように、ユダヤ教の一派で、律法を固く守り、それを行うことを第一としていた国粋主義者たちです。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていたので、ローマ帝国に税金を支払わなくてはなりませんでしたが、ファリサイ派の人々はそれに対して反対の立場をとっていました。しかし、それを表面的に表すような愚かなまねはしなかったようです。
それに対してヘロデ派とは、ユダヤの領主であるヘロデ家に近い人々でした。ヘロデ家というのは領主でありますが、当時の状況においては、民衆の信頼を得ていたと言うよりは、ローマ帝国の庇護の下で、その権力を持っていた訳です。
ローマ帝国に支配されているという現実を受け入れ、ローマに税金を支払うことにも賛成していたようです。さらに、ユダヤの領土においては、独自に税金を取り立てる権限をももらっていたので、徴税人を雇い、民衆の暮らしを圧迫する側にいたようです。
このように対立関係にある人々でしたが、同じ目的のためには一緒になることができました。それはどちらの立場の人々もイエスを邪魔者だと思っていたからです。ユダヤの人々のイエスに対する思いとは宗教的には律法主義からの解放者であり、社会的にはローマ帝国からの解放者だったからです。
彼らはローマ帝国への税金を支払うべきか、否かという具体的な行為に対するイエスの答えを求め、罠を仕掛けました。もし、支払うべきだと言えば、ユダヤをローマに売る売国奴として捕らえる事ができたし、支払う必要がないと言えば、ローマ帝国に対する反逆者として捕らえる事ができたのです。どちらの答えもイエスを捕らえる口実となったのです。
【イエスの対応】
11章27節以降でイエスはその権威について、祭司長、律法学者、長老たちから質問されましたが、その時は具体的に答えることをされませんでした。しかし、ここでは彼らの偽善を見抜いたうえで答えられました。
なぜ、ここでは答えられたのか。聖書はそのことについて何も書いていないので分かりませんが、もしかすると、この税金の問題は多くの人々にとって具体的な生活に関わる問題だったからではないでしょうか。
イエスの弟子の中に「熱心党のシモン」という人がいました。この熱心党というのは、ファリサイ派以上に国粋主義的な思想を持っていて、実力行使に出ることで有名な人々でした。
イエスと同じ時期、ガリラヤにユダという熱心党の指導者がおり、納税を拒否し、ローマに対する反乱を扇動しました。圧倒的なローマ軍の武力によって、その反乱は鎮圧されましたが、多くの血が流されたのも事実なのです。
イエスはそのような流血事件が起こらないことを望んでいたので、ここではっきりとした答えを出されたのではないかと思うのです。
イエスは彼らにデナリ貨幣を持ってこさせ、そこに誰の肖像、銘が書いてあるかを確かめさせました。ここで大切なのは、自分たちに持ってこさせるということです。もちろんイエスもデナリ貨幣くらいは持っていたと思います。自分の懐からデナリを出して見せることも出来たはずですが、敢えて持ってこさせたのです。それは、自分で確かめることによって出た答えの責任は自分に返っていくからなのです。
自分でそれを手にし、自分の目で確かめ、そして考え、自分で答えを出させているのです。彼らはデナリ貨幣を見て、そこにあるカイザルの肖像を見ました。そして、そこに書いてある文字を見たのです。
そしてイエスは税金を納めなさいとは言わずに「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられました。この答えに人々は驚嘆し、イエスはこの仕掛けられた罠から逃れたのです。
【神のものは神に】
本来、神と皇帝とを同列において考えることはできません。しかし、この仕掛けられた罠を逃れるために、神と皇帝を並列に置いたのです。そして、イエスの本意は、すべてが神のものであるというところにありました。
「すべて」という言葉には人からの評判も含まれます。つまり、善良な人であっても、それは神から与えられた徳によって、その人がそう見えるだけなのです。
しかし、人は自分で手に入れた「徳」と勘違いし、守ろうとするから無理がかかってしまうのです。そして、本当は本人がそのことを一番よく分かっているのです。つまり、善人になりきれない自分を知っているけれど、それを認めたくないのです。だから余計に善行を積もうとして無理をするから化けの皮がはがれてしまうのです。
イエスは「神のものは神へ返せ」と勧めています。善なる思いも、醜い思いも、すべては神から賜ったものなのです。だからそのままお返しすべきなのです。それでは、どうやって神にお返しすればよいのでしょうか。献金という形でお返しするのでしょうか。それもひとつの方法かもしれませんが、本質的な事柄とは違っています。
神に返すということは、神に評価してもらうという事です。目に見えない神が、どうやって評価してくれるのでしょうか。学校の通知表のように5段階評価で渡してくれるはずありません。すぐにその評価を知ることは出来ないと思います。いつか天の御国に入る時、直接聞くことができるかもしれませんが、今、私たちに出来ることは、人の評価に頼らないことです。
人の評価を気にしなくなる時、間違いを犯したり、独善的になったりする危険性があります。だから、信仰が必要なのです。御言葉と祈りによって神に尋ねつつ生活するのです。
人の評価がなくなると、地位も名誉も何も自分の手には何も残らないように見えてしまいます。しかし、それは天に宝を積むことにつながるのです。イエスは何も持たずに十字架への道を歩みました。ただご自分の十字架だけを背負って行ったのです。
讃 美 新生280 主イエスのみ名をほめよ 献 金 頌 栄 新生673 救い主 み子と 祝 祷 後 奏