前 奏
 招 詞   詩編16編10節
 讃 美   新生 20 天地治める主をほめよ
 開会の祈り
 讃 美   新生240 救いの主はハレルヤ
 主の祈り
 讃 美   新生249 み神はこの日を作りたもう
 聖 書   ヨハネによる福音書20章11~18節
                 (新共同訳聖書 新約P209) 

「涙をふいて」                   ヨハネによる福音書20章11~18節

宣教者:富田愛世牧師

【悲しみ】

今日はイースターです。キリスト教の三大祭と言われるものの一つで、最大のお祭りです。日本ではクリスマスのほうが有名ですが、聖書を見るとクリスマスの記事はマタイとルカにしか出てきません。ところが、イースターの記事は4つの福音書に出てくるのです。つまり、それだけ大切な出来事であったということなのです。

イースターの朝、復活したイエスに最初に出会うのは女性の弟子たちでした。ヨハネ福音書ではマグダラのマリヤの名前だけがあげられていますが、他の福音書をみると何人かの女性の弟子と一緒に墓に向かったようです。

このマリヤはどんな人で、イエスとはどんな関係だったのでしょうか。あまり詳しくは分かりませんが、七つの悪霊に取り付かれていたと記録されています。悪霊には様々な働きがあるので、説明する時間はありませんが、一言で言うならば、人間性を破壊してしまう働きという事ができると思います。ある時は肉体的な病気を通して、ある時は精神的な不安定さを通して、その人の人間性を破壊する力なのです。ですから、マリヤは肉体的にも、精神的にもどん底を味わっていたということだと思います。そんな時に、イエスと出会い、イエスがその悪霊を追い出してくださったのです。

マリヤのイエスに対する感謝の思いというものは、想像できないくらい大きなものだったと思います。文字通り、イエスがいなければ生きていけなかったのです。そういう意味で、心からイエスを愛していました。だから、この箇所でマリヤが墓の外に立って泣いている情景からマリヤの深い悲しみが伝わってくるのではないかと思います。

精神医学博士の土居健郎という方をご存知でしょうか。日本人の甘えということについて、たくさん本を書いています。孫引きですが、この方の書いた「親しい者との死別ーその意味と影響」という文章の中に「悲しみの秘密は愛である」と繰り返し語られているそうです。親しい人を失ってなぜ悲しいのか、科学の領域では説明が付かない。どうして涙が溢れてくるのか、心理学では説明が付かない。その秘密は愛であるということだそうです。

ここでマリヤはイエスを失った悲しみのゆえに、涙が溢れて止まらないのです。このマリヤの涙の中に「悲しみの秘密は愛である」ということが響いているのです。そして、愛があるからこそ、そこには悲しみも同居するのです。

【どこに】

次に、墓の外で泣いていたマリヤが、何故かは分かりませんが、墓の中を見ると、墓の中には二人の天使がいました。この時点で正常な状態だったとしたならば、マリヤは天使に驚いたはずです。しかし、マリヤには驚く余裕もなく、白い衣を着た天使を見つけるのです。

天使がマリヤに、なぜ泣くのか尋ねると、マリヤは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と答えています。天使を見て驚くどころか、その質問に冷静に答えているのです。でも、正常ではない状態なのです。とても不思議な受け答えですが、それほど悲しみのショックが大きかったのではないかと思うのです。

マリヤはここで、イエスがどこにいるのか知ろうとしています。人が愛する人を亡くした時、今どこにいるのだろうかと問わないではおれないそうです。マリヤは、イエスは墓の中にいると思って、墓の外に立ち続ける他なかったのです。しかし、その墓の中にイエスはいないということで、さらにマリヤの悲しみは深くなっていったのです。愛する人がどこにいるのか分からなくなった時、人は失った悲しみを実感するのです。

 そして、マリヤが立っているこの墓とは死の世界の象徴です。死は命や愛の終わりであり、そのような死の支配にイエスも飲み込まれてしまったとマリヤは思っていたのです。

【振り向くと】

絶望の中で「どこに?」と言いながら後ろを振り向くと、そこにイエスが立っていました。しかし、マリヤにはその人がイエスだということが分かりませんでした。

ここでなぜ、マリヤは振り向いたのでしょうか。聖書にその理由は書かれていませんので、わかりません。しかし、マリヤは振り向いたのです。この「振り向く」ということは肉体的に身体の向きを変えることもありますが、それだけではなく、心の向きを変えるという意味も含まれるのです。

心の向きを変える時、新しいものが見えるようになります。イエスはどこにいるのか、その問いに対して、人間の常識や経験や知識では何も答えは出てきません。何も分からないのです。その常識や経験や知識といわれるもの、一切をかなぐり捨てて、180度方向を変えて、神に帰ることが必要なのです。これまで見ていなかった方向に目を向ける時、そこにイエスが立っておられるのです。

まさに心を入れ替え、悔い改めて神に帰ることをイエスは求めておられるのです。それは、これまで確かだと思っていた事から方向転換して、振り返ることによって、まったく見ていなかった事に気がつくということなのです。

【呼びかけ】

しかし、気付くだけでは何も変わりません。マリヤはここで振り向いて、そこに誰かがいることに気付いています。その誰かというのは、一番お会いしたい相手であるイエスではなく、園丁だと思っていたのです。園丁だと思い込んでいる、知らない人に気付くのです。

振り向いたにも関わらず、マリヤはそこにイエスが立っていることには、気付かないのです。しかし、確かに、そこにイエスが立っているという事実が重要なのです。

つまり、私たちが振り向いたつもりでも、気付いたつもりでも、そこにイエスの姿を見つけない限り、何も起こらないのです。そして、私たちが自分で振り返ったと思っていても、自分で気付いたと思っていても、本当はイエスが振り向いてくださり、さらに声をかけてくださっているのです。

イエスは「マリヤ」と名前を呼ばれます。ここでマリヤにとって名前を呼ばれるということがとても重要なことなのです。クリスチャンの精神医学博士のポール・トゥルニエという人は「名前は人格である」と語っています。「人間は名前を呼ばれることによって、他人と区別されるが、同時に名前で呼ばれることによって他人と自分が結び付けられる。まさに呼ばれることによって人はつくられる」と語るのです。

イエスにとってマリヤは、この世にたった一人しかいない、かけがえのない存在なのです。そして、マリヤの内面はイエスに名前で呼ばれることによって、大どんでん返しが起こり、深い悲しみが喜びに変えられたのです。

同じようにイースターの出来事は、この世にたった一人しかいない「私」をイエスが見つけ出してくださる出来事なのです。復活のイエスに出会う時、私たちは悲しみから解放され、喜びに満たされるのです。そして、私たちを縛り付けている罪から解放されるのです。

 讃 美   新生241 この日主イエスは復活された
 主の晩餐
 献 金   
 頌 栄   新生672 ものみなたたえよ(B)
 祝 祷  
 後 奏