前 奏
 招 詞   詩編46編10節
 讃 美   新生  4 来りて歌え
 開会の祈り
 讃 美   新生435 山辺に向かいてわれ
 主の祈り
 讃 美   新生290 主の祈り
 聖 書   マルコによる福音書13章1~13節
                      (新共同訳聖書 新約P88) 

「終末の徴」                   マルコによる福音書13章1~13節

宣教者:富田愛世牧師

【見えるものの儚さ】

前回の12章41節以下でイエスは神殿の賽銭箱に向かって座り、人々がお金を入れる様子を見ていました。お金持ちはたくさんのお金を入れていましたが、そこにひとりの貧しいやもめの女の人がやってきてレプトン銅貨二枚を入れました。するとイエスは弟子たちに向かって、この女の人は誰よりもたくさん入れたと言いました。なぜなら、神に絶対的な信頼を置いて、持てるものすべてを捧げたからだと言いました。

そんなことがあった後、イエスは神殿から出て行こうとしたのですが、その時、弟子たちが何を思ったのか、神殿の素晴らしさを褒めたのです。1節に「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」とあります。

誰が言ったのかは書かれていませんから分かりませんが、突拍子もない言葉だと思います。ただ、私はペトロの発言ではないかと思ってしまいます。なぜなら様々な場面で突拍子もないことを言うのは、ほとんどの場合ペトロだからです。

しかし、実際には誰の発言かは分かりませんし、誰が言ったかはそれほど重要なことではないと思います。大切なのは、弟子であろうが誰であろうが、目の前にある荘厳な神殿を見る時、その存在の大きさに圧倒されるという現実があるということです。

そんな弟子の言葉に対して、イエスは何と言っているのでしょうか。話を合わせて「本当だね、すごいね」とは言いませんでした。2節にあるように「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言うのです。

弟子たちはエルサレム神殿の荘厳さに目を奪われていました。このように私たちは目に見えることに左右されるのです。大きな会堂の教会を見ると「すごい教会だ」と思います。何がすごいのか、よく分かりませんが、きっと正しい教会だと思い込むのです。

 それに対して、イエスは外見に目を奪われず、本質を見抜く重要性を語りました。目に見えるものは、必ずいつかは無くなってしまうのです。だから、そんなところに価値を置いてはいけない。それらは人を惑わすものだと語られるのです。

【終末の徴】

そんなやり取りの後、イエスはエルサレムを出て、向かい側にあるオリーブ山に行かれました。そして、何をしていたのかは分かりませんが、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人が側に来て「ひそかに尋ねた」と書かれています。やっぱりペトロが入っているのです。私の想像が当たっているかもしれません。

私の想像が当たっているかどうかはどうでもいいことなのですが、この四人は最初にイエスの弟子になった四人で、イエスから「わたしについて来なさい」と声をかけられた四人なのです。

この四人が神殿を出る時にイエスが語った言葉の続きを教えてほしいと「ひそかに」尋ねたのです。なぜ「ひそかに」尋ねたのか。それはイエスの語った言葉に恐ろしさを感じていたからではないでしょうか。

目の前にある荘厳な建物が、いつの日か崩れて跡形もなくなってしまう。まさにこの世の終わりが来ると受け止めたのだと思います。そして、その時には「どんな徴があるのですか」と尋ねているのです。

13章はこの後37節まで、終末について書かれているので、続けて読んだ方が良いのかもしれませんが、礼拝の中で読むには少し長すぎるので三回に分けていこうと思っています。

5節から具体的に終末にはこのような徴がありますということが語られていくわけですが、これがとても大切なことなのです。というのは終末というのは、いつ来るのかは分かりませんが、徴があるというのです。

その前触れ、前兆があるというのです。それはどのようなものかというと、まずメシアを名乗る者が現れるが惑わされるなということです。そして、戦争の噂が流れるが慌てるなと言うのです。さらに、地震や飢饉などの天変地異が起こり、キリスト者に対する迫害が起こるというのです。

しかし、そのようなことは「産みの苦しみの始まり」であって、終末ではないのだから、耐え忍びなさいと言うのです。

【終末とは】

ところで、今まで当たり前のように「終末」ということを語ってきましたが、そもそも「終末」とはどのような時を指しているのでしょうか。

私が小学生くらいの頃だったと思いますが「ノストラダムスの大予言」という本が話題を呼んで、その中に「1999年の第7の月に世界は滅亡する」ということが書かれていて、終末ということに多くの人が関心を持つようになったと思います。

そこで語られていたのは、人類が滅亡し、それで終わりということだと思います。また、様々なSF小説などでも世界の滅亡、地球の滅亡ということが終末として描かれてきたわけです。つまり、すべての終わりの時が終末であって、その先にはもう何もない。夢も希望もない無の世界になってしまうということだと思うのです。

しかし、それらに対して聖書の語る「終末」というのは意味が違っているのです。

聖書の語る終末も、この世の終わりということにおいては同じかもしれませんが、そこには目的があるのです。イエスはエルサレム神殿が崩れ去り、跡形もなくなると語り、形のあるものは、いつかは滅びてしまうということを伝えました。

しかし、それはすべての終わり、その先には何もなくなってしまうということではありません。日本基督教団出版局から出ている「讃美歌21」の575番に「球根の中には」という賛美があります。その3節に「いのちの終わりは、いのちの始め。おそれは信仰に、死は復活に、ついに変えられる 永遠の朝。その日、その時を ただ神が知る」とあります。

形あるもの、そして、私たちの肉体はいつかは滅びてしまう。しかし、聖書は永遠の命を約束しているのです。そこに希望があるのです。終末というのは、この世の終わりではありますが、同時に神の国の始まりでもあるのです。

旧約聖書のイザヤ書40章8節には「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と書かれています。終わりのあるものと永遠に続くものがあるのです。

【惑わされないように】

 初めに言ったように、イエスは外見に目を奪われないようにしなさいと語りました。目に見えるものは、必ずいつかは無くなってしまうのだから、そんなところに価値を置いてはいけない、それらは人を惑わすと語ります。

 終末の時には様々なもの、事柄、人が、自らをメシアだと名乗り、人を惑わすのです。現代社会においてはあからさまに自分をメシアと言う人は少ないでしょうが、優秀さや美しさ、そして正しさを隠れ蓑にして近づいてくるのです。

 私たちの周りには、すぐにそれと気づくことの出来るような、惑わすものもたくさんあります。インチキ臭い新興宗教もそうですし、ねずみ講的な商売、またギャンブルや薬物、借金するということも私たちを惑わそうとしています。そういったものは、ちょっと冷静になって考えるなら、気づくことが出来そうですが、当事者にとっては判断がつかなくなっているのです。

 また、惑わす者は、悲惨な終末を語るだけでなく、目に美しく見える理想世界を語り、人々を惑わそうとすることもあるのです。正義の戦いとか美しい国などという言葉は、聞こえが良すぎて恐ろしくなってしまいます。脱炭素社会や持続可能という言葉も惑わす要因になり得るのです。

 終末の徴は、このように私たちの周りにすでに存在しているのです。だから、私たちは「終末が近い」と言って恐れ、戸惑うのではなく、目を覚ましておかなくてはならないのです。いつまでも残る「神の言葉」聖書に聴いて、イエスの後姿を見て、あとについて行かなければならないのです。

 
 讃 美   新生551 愛する主イエスは
 主の晩餐式
 献 金   
 頌 栄   新生673 救い主 み子と
 祝 祷  
 後 奏