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「気をつけなさい」 マルコによる福音書13章14~27節
宣教者:富田愛世牧師
【読者は悟れ】
今日の個所は前回お話ししたように、続きとなっていて終末の徴について語っています。前回は目に見えるものの儚さや惑わされないようにという忠告が語られていましたが、今回は、立ってはならない所に立つ者や偽メシアが現れるといったこと、また、終末の前に起こる苦難の時にどうすればよいのかが語られています。
ただし、これらの終末の徴とは「これです」というような明確なものがあるわけではありません。
14節に「読者は悟れ」と注意書きのような形で語られているように、答えは一つではなく、様々な形で終末の徴は表されるのだということを悟ってほしいと願っているのです。
そして、初めに出てくるのが「憎むべき破壊者」です。
この憎むべき破壊者とは誰を表しているのかという疑問が、すぐにわいてくると思います。昔から様々な解釈がなされ、書かれた時代背景からローマ皇帝を指しているのではないかとか、異教の神の偶像が神殿に立てられたことがあるので、そのことを指しているのではないかなどと言われてきました。
「誰」とは特定できませんが、独裁的な指導者全般とみてもよいかもしれません。このような指導者は世界中にいますし、ひと昔前は共産主義的な独裁国家のリーダーがそうだと思われていたこともありますが、近年、民主的な国にも同じようなことが起こっています。
さらに、信仰的には反キリストと受け止めることもできます。反キリストとは、イエスの語られた福音に反する者や事柄で、具体的に言えばいと小さき者を虐げ、右の頬を打たれたら殴り返し、人の言葉に耳を傾けず、自分の主義主張だけを語ること。人との関わりを大切にしないで、自分にとって価値のない者、必要としない者を排除する。究極的には愛を語らず、憎しみを語る、そのような人や体制を指しているのです。
【逃げなさい】
ある人たちは正義感から、そのような憎むべき破壊者に立ち向かっていこうとするでしょうが、ここでは「逃げなさい」と語られているのです。
日本人のメンタリティーには逃げることが恥であるという感情があるかも知れませんし、歴史を振り返ると殉教者と言われる多くの人々が憎むべき破壊者に立ち向かって、戦い、そして、命を落としてきました。それらもその時や状況の中では必要なことだったのかもしれません。
しかし、答えは一つではないのです。ここで語られるように「逃げること」も選択肢の一つとして認められているのです。
15節以降には様々な状況が語られています。「屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない」とか「畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない」というのは躊躇せず、とにかく逃げなさいということだと思います。
「身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」とか「冬に起こらないように祈りなさい」というのは具体的な事というより、考えられないような苦難が襲ってくるということを表しているのです。
そして20節にあるように、その期間が長く続くならば、いったい誰が救われるのだろうかと言われるくらい、危機的な状況がやってくるというのです。
しかし、神は滅びることを望んでいるのではないのだから、その期間を縮めてくださるのだというのです。
【祈り、信頼しなさい】
18節では「冬に起こらないように、祈りなさい」と言われます。冬であろうが夏であろうが、このような苦難が襲うことを私たちは望みません。だから苦しい時には祈りなさいと語るのです。
苦しい時に祈るのは当たり前だと思うかも知れませんが「苦しい時の神頼み」という言葉があり、この言葉の中には、苦しい時だけ神に頼るのは都合の良い話で、そんな願いは聞かれないのではないかというような否定的な考え方があります。
確かに神を都合よく利用しているように感じるかもしれません。しかし、苦しい時だからこそ、神に頼る必要があるのではないでしょうか。
先日ニュースを見ていた時、コロナ危機になってから通勤途中にある築地本願寺に立ち寄るようになって、心に安らぎを感じるようになったという人が特集されていました。その人は毎回、参拝カードというのをもらうそうで、その一枚が映し出されました。そこには「泣きたいときはいつでも泣きにお越しください。築地本願寺へ」と書かれていました。
泣きたいときに、泣きに行く場所があるということはとても大切なことだと思うのです。そして、泣くという行為は祈りそのものでもあると思うのです。苦しい時に祈る相手を知っているということと、泣きたい時に泣ける場所があるということは同じだと思うのです。
そして、先に言ったように「主はご自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」というように、どんな苦難が来ようと、主を信頼して、その時を待つことが大切なのです。
もちろん、信頼しなければ助けてくれないというような条件付きの救いではありません。しかし、本当の助け主に祈ることが出来るということに感謝し、信頼することが出来るならば、神が共にいてくださることに気付くことが出来るのです。
【気をつけなさい】
ところが21節にあるように、その時に「見よ、ここにメシアがいる」「見よ、あそこだ」と言うものがいて、偽メシアや偽預言者が現れるというのです。
それに対して、私たちは「気を付けて」いなければならないのです。旧約の預言者たちが神の言葉に忠実に従ったように、現代においてもクリスチャンは、神のみ言葉に固く立ち、気をつけなさいと悔い改めを叫んでいかなければならないのです。
この悔い改めというのは、反省することではありません。方向転換することなのです。今まで歩んでいた方向は間違っているから、正しい方向に向かって歩むということなのです。
私たちは危機的な状況に置かれているということを自覚しなければなりませんが、それこそ、前回の7節にあるように戦争の噂に踊らされてはいけないのです。「どこかの国が攻めてくるかもしれない」という噂を耳にする時、恐怖を覚えるのは当然のことです。
しかし、だからといって、それに対抗するような武力を整えることを聖書は勧めていません。聖書には「ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と書かれています。イエスは対抗して、立ち上がれと言うのではなく、逃げろと語られるのです。
逃げるという行為は必ずしも否定的な行為ではないということを聖書は語るのです。そして、これも一つの方向転換なのです。
自衛するとか、守るということは必ずしも応戦することではないように思うのです。どんなことがあっても戦争という最終手段は正当化されてはいけないと思います。「国を愛するために戦う」という言葉を聞きますが、戦争によって愛する同胞が死に、愛する郷土が破壊されるということを人類は経験してきているのです。戦争によって国土を荒らし、人の心を荒らすことは許されていません。
そんなことを命令する者が権力の座についてはいけないのです。立ってはならぬ所に立たせてはいけないのです。
戦争の噂は人を神から遠ざける力なのです。そして、いとも簡単に人は神から遠ざかってしまうのです。こんなことを語ると非国民と言われるかもしれません。しかし、それも「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」というみ言葉が前もって知らせていることなのです。
讃 美 新生543 千歳の岩よ 献 金 頌 栄 新生673 救い主 み子と 祝 祷 後 奏