前 奏
 招 詞   サムエル記上21章7節
 讃 美   新生  4 来りて歌え
 開会の祈り
 讃 美   新生 16 み栄えあれ愛の神
 主の祈り
 讃 美   新生134 生命のみことばたえにくすし
 聖 書   マルコによる福音書14章12~26節
                     (新共同訳聖書 新約P91) 

「最後の晩餐」                マルコによる福音書14章12~26節

宣教者:富田愛世牧師

【イエスの仕込み】

最近「サプライズ」という言葉が良く使われますが、聞いた事があるでしょうか。有名なミュージシャンが突然CDショップ等に来てサプライズライヴをするとか、もっと身近な事でいうなら、何かのお祝いをする時に、ずっと知らんふりをしながら突然プレゼントを渡したり、みんなで「おめでとう!」と言ったりすることもサプライズと言います。

日本語では驚きという意味の言葉ですから、肯定的な驚きもあれば、否定的な驚きもあって、どちらにも使えそうな言葉ですが、最近流行っている「サプライズ」という言葉を使う時は肯定的に使われる事が多いようです。そこには相手を驚かしたいのですが、否定的に驚かせるのではなく、喜ばせたいという気持ちが含まれているのです。

そして、サプライズをするためには、入念な仕込みと言われる準備が必要になってきます。相手には気付かれないようにしながら、やる側は細かく準備をしていかなければならないのです。突然と言っても、思いつきでサプライズということは出来ないのです。

聖書を読むとイエスも様々な場面で、サプライズといわれるようなことをしています。今日の箇所もある意味でサプライズではないでしょうか。

過越の祭りが近づき、弟子たちが過越の食事の用意をしようとして、イエスにどうすべきかを尋ねました。するとイエスはこれからするべき事を話されるのです。そして、弟子たちが街へ行くとイエスの語られたとおり、水がめを持った人がいて、付いていくと一軒の家に着き、その家の主人に事の次第を話すと2階の座敷に案内され、そこには席が整えてあったというのです。

当然の事として、偶然そうなったのではありません。イエスが準備されていたのです。そして、イエスがこのようなサプライズを計画したことには意味があったのです。それは神の計画というものがあり、私たちはその計画の中を歩んでいるということなのです。

私たちの周りに起こる出来事はすべて神の計画の中にあり、偶然ということはあり得ないのです。これから起こる、悲しい出来事、悲惨な出来事、神不在のように感じる出来事を含めて、すべては偶然ではなく神の計画の中にあることを示しているのです。

【裏切りの予告】

さて、そのようなサプライズの中で、過越の食事が始まりました。過越の食事というのは、日本で言うならば、お正月のお節料理のように特別なものだそうです。

私はいわゆる新人類と呼ばれる最初の世代ですし、牧師家庭という特殊な環境にいたので、日本的なお正月やお節料理についてはよく分かりませんが、私にとってはクリスマスの特別な食事というような感覚ではないかと思っています。いずれにしても、食事を共にしながら、楽しく過ごす、ひと時となるはずでした。

しかし、イエスはそこで衝撃的なことを語られました。それは裏切りの予告だったのです。過越の食事には特別な意味が込められていて、それは共同体としての信頼関係、仲間意識、そういったものを確認することでした。それなのにイエスの語る言葉は正反対のことだったのです。

弟子たちは口々に「まさかわたしのことでは」と言って自分は裏切らないということを主張しましたが、イエスは「同じ鉢に食べ物を浸している者」が裏切ると語られました。同じ鉢に食べ物を浸すとは、どういう食べ方なのか、よく分からないと思います。

私もよく分かりませんが、ある注解書では、同じ醤油皿を使って、刺身か何かを食べるくらいの親しさを表していると書かれていました。

つまり、ここで言われる裏切りというのは、相手を憎んでいるとか、不満を持っているから裏切るのではなく、本当に親しい関係を持っているのに裏切ってしまうということなのです。お互いに信頼しているのに、それを裏切るということなのです。

誰が裏切り者になるのか、弟子たちにとって不安だったでしょうし、気になって仕方なかったと思います。私たちにはイスカリオテのユダという名前が思い浮かびます。しかし、結果的には弟子たちは全員、イエスを裏切り逃げてしまうのです。

【わたしのからだ、わたしの血】

このような裏切りの予告という衝撃的な事が語られたのですが、過越の食事はさらに続けられていき、象徴的なイエスの言葉が語られるのです。

イエスはパンをとり、それを祝福して裂き「これはわたしの体である」と言って弟子たちに配られました。そして、次に杯をとり「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と語られ、一同はその杯から飲んだということです。

このイエスの言葉は、私たちにとってはそれほど衝撃的ではないかもしれませんが、当時のユダヤ人にとっては、天地がひっくり返るほど衝撃的な言葉なのです。

創世記9章4節はエホバの証人の人たちにとってはとても重要な箇所で、彼らの輸血拒否の元となっている聖句なのですが、そこには「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」と書かれているのです。つまり、律法は血を食べることを禁じているのです。ですから、イエスの言葉は律法違反を推奨する言葉となってしまうのです。

しかし、ここにイエスの福音の本質が表されているのです。それはユダヤ教からの解放です。イエスの命令は、そしてイエスご自身が律法以上の存在であることを意味しているのです。

私たちの中にも宗教的規則や戒律のようなものを恐れる気持ちがあるのではないかと思います。どうでしょか、皆さんは教会に始めて来ようと思った時、何の躊躇もなかったでしょうか。たぶん躊躇された方が多いと思うのです。行ってみたいけど、戒律のようなものがたくさんあるのではないかとか、一度入ると抜けられないのではないかとか、いろいろと考えられるようです。

宗教は怖いとか、遠慮しますという感覚の底には、そういう宗教に対する不自由さという感覚があると思うのです。確かにそういったものを求めて宗教に入る人もいます。しかし、イエスの福音は規則や戒律を作り、その枠にはまればよいということではありません。

反対に、そのようなものからの解放なのです。限定的に言えばユダヤ教の律法主義といわれる形からの解放なのです。

【解放された食卓】

 さらにこのイエスが行う解放の業は宗教という枠を超えて行くもので、私たちを縛り付ける、あらゆるしがらみから解放してくれるのです。特に迷信や形だけが残っている言い伝えからの解放です。もちろん迷信や言い伝えの中にも、明確な理由があって、生活の知恵として残すべきものもありますから、それを見極めた上での話です。

民族や出生、障碍のあるなしによる差別などの温床となるような迷信、言い伝えもあります。最近注目されているジェンダーということに関しても迷信や言い伝えは強い影響を与えています。

こういった問題の根本にあるものが罪の問題なのです。神を神と認めない事から始まり、自分が神のような存在になってしまい、他人を裁いたり、自分より下に見たりしてしまうようになるのです。この罪から解放するためにイエスは私たちを食卓へと招いてくださるのです。

ここには十二弟子が招かれていますが、これは特別な人として12人が招かれているのではありません。12とはイスラエルの12部族を意味する数字です。つまり、すべての人類を意味しているのです。

そして、その中にはイエスを裏切る者がいるということも、前提となっているのです。正しい者、聖い者が招かれるのではありません。私を含めたすべての人がこの食卓に招かれ、イエスの裂かれたパンを食べ、同じ杯から飲むのです。それによって私たちはイエスを受け入れるという事を表していくのです。イエスを受け入れる事によって、私たちは神との交わりの時を過ごす事が出来るのです。

そして、これが神の望まれている事柄なのです。神はすべての人との関係が元通り、正しい関係に戻り、すべての人に祝福と平安とを与えたいと願っておられるのです。

 讃 美   新生417 主イエス弟子を招き
 献 金   
 頌 栄   新生673 救い主 み子と
 祝 祷  
 後 奏