前 奏
 招 詞   哀歌1章19節
 讃 美   新生  5 神の子たちよ 主に帰せよ
 開会の祈り
 讃 美   新生105 くしき主の光
 主の祈り
 讃 美   新生384 語り伝えよ 神のみ言葉
 聖 書   マルコによる福音書14章43~52節
                       (新共同訳聖書 新約P93) 

「ユダの使命」                  マルコによる福音書14章43~52節

宣教者:富田愛世牧師

【ミッション】

すべての人は、偶然この世に誕生したのではありません。一人ひとりに存在する意味があるはずです。つまりそれぞれに使命を持って生まれてきたのです。

ただ、その使命についても、大きなことを成し遂げるような使命ならば、目立つし、多くの人が注目するので、素晴らしい使命だと思ってしまいますが、反対に目立たず、誰からも注目されないような使命だと、周りの人はもちろん、本人も自分の使命に気付かないという事があるのではないかと思います。

政治の世界を見ると、国会議員と地方議会の議員を比べて、国会議員の方が偉いような勘違いをする人が大勢います。どちらも市民から選ばれて、国の政治や地域の政治を担う働きを委託されているはずです。国と地域、どちらが偉いのか?などという議論は本来あり得ないことです。

国のことだけでなく、一般の企業にも同じことが言えると思います。もちろん給料の格差や出世のスピードや到達点の違いはあるのかもしれませんが、本社には本社がするべき働きがあり、支社には支社にしか出来ない働きがあるはずです。どちらが大切という事ではなく、両方が無ければ健全な経営は出来ないはずです。

そのようにひとり一人は今与えられている場所において、するべき働き、使命があるのです。

一人ひとりに与えられている使命がどのようなものなのかは、その人にしかわからないことがあります。しかし、多くの人は自分の物差しで、他人の使命が何かを知ろうとしてしまいます。そこで、誤解が生じ、他人の使命を理解することが出来なくなってしまうのです。

【ユダの使命】

今日の聖書でユダという弟子はイエスを裏切りましたが、このユダにも神から与えられた使命があるのです。その使命がどのようなものなのかは分かりませんが、キリスト教はその物差しによって、勝手にユダ一人を裏切り者、悪者にしてしまったという歴史を持っているのです。

ユダについて、聖書の中には様々な記述があります。ベタニアでイエスの足に香油が注がれた時「なぜこんなにもったいないことをするのか」と憤慨しました。その理由としてヨハネ12章6節に「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」と書かれていたり、イエスを裏切った時、祭司長たちに銀貨30枚でイエスを売ったり、いわゆるお金にまつわる話が多いので、弟子集団の中で会計係としての働きを担っていたと考えられています。

しかし、冷静に考えるなら、イエスと弟子たちが3年の間、ガリラヤ地方を回り、神の国について、福音について語ることが出来たのは、やはりユダの才覚があったからではないかと思うのです。

ペトロやヤコブ、ヨハネも素晴らしい弟子たちでしたが、もし、彼らがお金を預かっていたとするなら、イエスの活動は3年ももたなかったのではないでしょうか。ユダには大切な使命があったのです。そして、イエスの十字架を前にして、もう一つの、そして、もしかすると一番大切な使命があったという事ではないでしょうか。

ユダに限らず、聖書の中に出てくる「悪役」のような人たちは悪人ではないと思うのです。ただ、その「罪」というものがキリスト教会の中で強調されすぎてしまったような気がします。

どこの世界でも同じ事が言えるのですが、自分たちの正しさを強調する時、必ずと言っていいほど「敵」を作るのです。そして、その敵の邪悪さをあげ連ねて「それよりはましだ」という論理展開で、自分の正しさを証明しようとするのです。

キリスト教会も同じ論理展開で、護教的な自己保身のために、イスラム教をはじめとする他宗教を敵にし、聖書の中に出てくる悪役たちを敵にして、自分たちの正しさを主張したように感じられます。

【裏切る理由】

ユダが私たち以上に罪深い人なのかは誰にも分かりませんし、私たちが裁く必要もありません。また、ユダがイエスを裏切った理由も誰にも分かりません。しかし、いくつかの説があげられています。代表的なものに、不正と貪欲のため、幻滅のため、力の強制のため、という3つの理由があります。

不正と貪欲のため、とはどういうことかと言うと、ユダは弟子たちの中で会計係を任されていました。しかし、彼はその会計の中から自分のために不正にお金を使っていたと言うのです。はじめは小さな不正だったかもしれませんが、「うそがうそを生む」のたとえどおりに、小さな不正が大きな貪欲を生んでいったのではないでしょうか。そして、最終的には、イエスを売り飛ばすまでになったという説です。

幻滅のため、とはどういうことかと言うと、当時のユダヤはローマ帝国の植民地で、ローマ帝国からの解放を夢見ていました。「救い主が来て、ローマ帝国から解放してくれる。ローマ帝国を滅ぼし、ユダヤの国の再興がされる。」という期待です。ユダはその解放をイエスに期待しました。しかし、イエスにはローマ帝国を滅ぼす気配がありません。イエスのされていることは「愛」「聖め」「赦し」「癒し」など、彼の期待に合わないものだったという説です。

力の強制のため、とはどういうことかと言うと、ユダはイエスに力での解放を強制したかったのです。もし、祭司たちに引き渡せば、イエスは否が応でも奇蹟の力を発揮して、そこからユダヤの解放が始まるだろうと考えたのです。イエスに強制的にきっかけを与えようとしたと言う説です。

このような説が有名なものとしてありますが、その根底には「キリスト教」という物差しがあるのです。

そもそもキリスト教の立場としては弟子にはイエスに従ってほしいという願望があります。しかし、イエスはどうだったのでしょうか。もちろんイエス自身「わたしに従いなさい」と語られましたが、その言葉は文字通り、命令として受け止めるものではないような気がするのです。

【イエスの物差し】

 聖書が伝えようとしていることの本質はイエスの語られた福音です。この福音という物差しによって、ユダの裏切りを見ていかなければなりません。つまり、裁くためにユダの行動を見るのではなく、愛をもってユダの行動を見ていくということです。

 私たちはすぐ、二者択一的にどちらが正しく、どちらが間違っているのかという判断をしようとしてしまいます。しかし、イエスの語る福音はどちらが正しいかを測る物差しではありません。現実の中で、そこにいる一人の人間を見て、語って、触れて、その必要を感じ取っていく中で、最善の言葉をかけ、行動を起こしているのです

ユダを裁こうとする私たちに向かって、イエスの言葉を借りるなら「あなた方の中で友を裏切ったことのない者からユダに石を投げなさい」ということです。

もしかすると「私は友を裏切ったことなどありません」と言われる方がいるかもしれません。「私には友だちがいません」という方もいるかもしれません。そういうことではなく、イエスを裏切る、神を裏切るという「罪」が問題なのです。

実際、イエスを裏切ったのはユダ一人ではなく、他の弟子たちも「裏切り」という事実においては同じです。そして、この聖書を読んでいる私たちにも同じ問いが投げかけられているのです。

私は最後まで裏切らずにイエスに従えるのだろうか?と自分自身に問うてみてください。そして、従えても、従えずに裏切ったとしてもイエスはそんな私たちのことを最後まで愛されるのです。そして、そんなイエスの愛に気づいたならば、それに気づいたひとりとして、私たちのこれからの生き方が変えられていくのです。

 讃 美   新生461 迷い悩みも
 献 金   
 頌 栄   新生669 みさかえあれ
 祝 祷  
 後 奏