前 奏
 招 詞   箴言14章25節
 讃 美   新生  5 神の子たちよ 主に帰せよ
 開会の祈り
 讃 美   新生123 果てなき大空
 主の祈り
 讃 美   新生426 語りませ主よ
 聖 書   マルコによる福音書14章53~65節
                      (新共同訳聖書 新約P93) 

「不正な裁判」                  マルコによる福音書14章53~65節

宣教者:富田愛世牧師

【ユダヤの指導者】

本日より来週の日曜日まで日本バプテスト連盟では「神学校週間」として、神学校の働きのために祈り、献金を捧げる時を持っています。この働きは全国壮年会連合が中心となって、各教会の壮年たちが積極的に働きかけています。神学校週間で集められた献金は神学生たちの奨学金に充てられます。

毎年6月最終の日曜日から次の日曜日までが「神学校週間」なのですが、なぜこの期間になったのかな?と思って調べてみたのですが、よくわかりませんでした。でも、どこかで、誰かが、この時を神学校週間として覚えて、祈り捧げようと決めたはずです。

そのように私たちの周りには様々な決まりがあります。そして、大多数の人がその決まりに対して納得するならば、それが共通のものとなっていくはずです。今日の聖書には一つの決議機関での出来事が記録されています。

当時のユダヤ社会では祭司長、長老、律法学者たちによって最高法院が作られていました。これは現代の日本における国会と裁判所を合わせたような機能を持っており、文字通り最高決議機関だったのです。

55節を見ると、この最高法院のメンバーがイエスを死刑にするためここに集まり、形だけの裁判を行なおうとしていたという事なのです。

繰り返すようですが、この最高法院のメンバーは祭司長、長老、律法学者でした。クリスチャンが聖書を読む時、祭司長、長老、律法学者たちを悪役として捉えてしまう事があります。

しかし、彼らは決して悪人ではありません。人々から信頼を受け、知恵と知識に富み、道徳的にも正しい人々でした。イエスを十字架にかけようとしたのは、そんな正しい人々、善人たちだったのです。

ここに人間の愚かさというか限界を見ることが出来ます。その人の肩書や身なりによって、また、仲間や自分たちに反対しない者たちに対する優しさや礼儀正しさによって、その人を正しい人、善人と判断してしまうのです。

祭司長も長老も律法学者も、そういう正しい人、善人だったのです。

【仕組まれた裁判】

そのような、正しい人、善人である、彼らにとってイエスは邪魔者でした。なぜイエスが邪魔者だったのか。それは彼らの正しさ、義というものが神の前でも通用する正しさ、義ではなかったからです。

彼らの正しさや義というものは他人との比較の中での正しさや義だったのです。当時の人々にとって律法を守ることが正しさの基準でした。つまり、律法さえ守っていれば、正しいと評価されたのです。

しかし、現実の生活において「普通」の生活をするなら、律法を厳守することは、かなり難しかったのではないかと思います。それに対して祭司や律法学者は、律法を守ることを生業としているわけですから、彼らには可能だったのです。だから、彼らは正しい人、義なる人となることが出来たのです。

当時の人々は律法の本質ではなく、律法主義というものに縛られていたという事なのです。それに対してイエスは律法の本質について語りました。つまり、神の愛に照らされた律法解釈という事をしたのです。それは真の神の御心を知っていたからです。

祭司長、長老、律法学者たちも神の御心を知ろうとしていたでしょう。しかし、それ以上に宗教的伝統や決まり事、つまり形としての律法に捕らわれていたのです。そして、その律法を守ることが神の御心であると勘違いしていたのです。

聖書を読んで、神の御心に気づく時、私たちは変えられてしまいます。しかし、人は変ることが怖いのです。今まで自分が築き上げてきたものが壊れそうな気がして恐ろしいのです。祭司長たちも、そのような恐れの前に臆病になってしまったのです。

恐れをもつ時、人は敵を作り、その敵を攻撃することによって、恐れから逃げようとするのです。彼らにとっての敵はイエスでした。だからイエスを抹殺するために裁判が開かれたのです。ただ彼らは無法者ではなかったので、形式上、裁判を開きましたが、イエスを死刑にするため仕組まれた裁判だったので、様々な不正を働くはめになったのです。

【不正な背景】

その不正とは、裁判が行われた場所、時間、立会人、また決定的なものとして偽の証人を立て、偽証させようとしたことです。

そもそも、この当時のユダヤはローマ帝国の植民地でした。ある程度の自治は認められていたでしょうが、裁判によって死刑判決を下すことはできませんでした。もちろん、ここでも15章にあるようにピラトに最終的な決断を求めていますが、64節にあるように「死刑にすべきだと決議」しているのです。

そして、この裁判が行われた時間も、ゲッセマネの園で祈っている途中で連行され、そのまま大祭司のところへ連れていかれているわけですから夜中だったと思われます。夜中に裁判が行われるということは、通常では考えられない事でしたが、ここではそんな常識は関係なく、裁判が行われるのです。

そして、証人の問題も出てきます。事実を証言する場合は、複数の証人が立てられても証言内容は一致しますが、嘘の証言の場合は、念入りに口裏あわせをしなければなりませんでした。しかし、ここではそこまでの準備はできなかったようです。

どのような内容が「食い違っていた」のかはわかりません。しかし、59節に「彼らの証言は食い違った」と書かれています。食い違っていたにも関わらず、大祭司は不利な証言に対して「何も答えないのか」と言っています。茶番としか言いようのない裁判が行われていたようです。

祭司長、長老、律法学者たちの企みは成功しませんでした。しかし、彼らにとって、この裁判は結果ありきの裁判だったので、そんなことは関係なく、無理やり「神を冒涜している」という理由にもならないような理由付けで、死刑判決を下すという結果を強行しているのです。

【眠る群衆】

 さて、この裁判の最中、大祭司の庭には群衆がいました。彼らが誰なのかは分かりません。その中にはイエスのエルサレム入城を歓迎した人もいたでしょうし、反イエスの立場をとる者もいたでしょう。そして、夜中に行われたという事で、多くの群衆は自宅で眠っていたのです。彼らはイエスの裁判に無関係だったのでしょうか。

今、私たちはマルコ福音書14章を読みながら、どこに立っているのでしょうか。

祭司長、長老、律法学者たちのような善人でありながらもイエスを十字架にかけようとする人でしょうか。

それとも直接手をかけることはしないけれども、自分たちの立場を守るために権力者の側につき、取り巻く群衆でしょうか。

それとも、その場にはいませんでしたと言い訳の出来る、眠る群衆でしょうか。こんな質問をすると非常に答えにくいと思います。どれも好ましい答えではないのです。

出来ることならば「私はイエスに従います」と言いたいのです。けれど、聖書を読むなら弟子たちは逃げてしまったと書かれています。つまり、これが私たちの現実なのです。従いたい気持ちは誰にも負けないくらい持っているのです。しかし、現実を前にする時、その気持ちは萎えてしまうのです。そして、今も私自身がイエスを十字架にかけ続けているのです。

だから、眠っていてはいけないのです。無関心でいてはならないのです。今この福音に出会い、気づいたならば、目を覚まして、イエスを十字架につけようとする力、福音をこの世の価値観に照らして骨抜きにしてしまおうとする力に対してNOと言わなければならないのです。

 讃 美   新生219 救い主 主イエスは
 献 金   
 頌 栄   新生669 みさかえあれ
 祝 祷  
 後 奏