前 奏
招 詞   ホセア書2章21節
讃 美   新生 13 ほめまつれ主なる神
開会の祈り
讃 美   新生563 すべての恵の
主の祈り
讃 美   新生296 十字架のイエスを仰ぎ見れば
聖 書   コリントの信徒への手紙一14章33~36節
                      (新共同訳聖書 新約P319)

「語りましょう」                 コリントの信徒への手紙一14章33~36節

宣教者:富田愛世牧師

【差別】

8月は「平和」をテーマに宣教していこうと決めて、今日で4回目になります。それぞれに別の視点からアプローチしてきたつもりですが、一つのキーワードと言いますか、一貫して流れるものがありました。それは「平和を実現する」という事です。

ただ、この言葉はわたしにはとても難しくて「平和を実現しなければならない」という解釈をすると律法主義的になるし、私たちが「平和を実現する」と言うとおこがましくなるし、「平和を実現したい」になると、ただの願望にしか聞こえなくなってしまいそうで、どのように表現すればよいか迷ってしまいます。

しかし、神の宣言によって「平和は実現している」と同時に、私たちも実現する一人として、神に覚えられているという「既に」と「今だ」という狭間にいるのかなと思っています。

そのような思いの中で、今日は平和を脅かす身近なものとして「差別」という事について考えてみたいと思っています。

差別と聞くと何を思い浮かべるでしょうか?時代や住んでいる地域、文化、環境などによって思い浮かべるものが違うと思います。昨年の5月以降はBlack Lives Matterという言葉が世界中に広まり、人種差別ということが多くの場面で話題になりました。私は小学生時代を大阪の豊中市という所で過ごしましたが、当時の道徳の授業では部落差別、同和問題について、かなりの時間を使って学びました。実際に小学校の校区内に「部落」と呼ばれる地域があったので、身近な問題だったのだと思います。

最近の出来事としては東京オリンピックの組織委員会会長だった森元総理大臣が女性蔑視発言をして辞任しました。性差による差別、特に女性差別というのは日本には根深く残っているように感じます。もちろん世界中に女性差別という現実はあるわけですが、私を含めて、日本の男性には刷り込まれたものがあるように感じます。

そして、この女性に対する差別意識というものは教会の中にも当然のように存在していて、さらにたちが悪く、聖書の中に女性差別を肯定し、助長するような言葉があるわけです。

【聖書信仰と差別】

聖書に差別的な言葉が書かれているという事は、神も差別するという事でしょうか。この問いに対して簡単に答えを出すのはとても難しいことだと思います。そもそも、私たちが読んでいる聖書は翻訳されたものですから、その翻訳という段階で、もしかすると誤りというか、誤解を招くような書き方がなされることはあるわけです。

また、私たちのバプテスト教会も、さらにプロテスタント教会のほとんどは「聖書信仰」というものを大事にしています。バプテスト教会は、聖書のみが信仰の規範で、聖書以外の信条や信仰問答のようなものも大切ではありますが、聖書と同じ位置には置かないという事です。

この聖書そのものもヘブル語やギリシア語で書かれたものですが、それらは口伝伝承という形で伝えられたものを、ある時期に文書化したわけです。そして、当然のようにその当時は印刷機などありませんから、書き写していくわけで、何種類かの写本と呼ばれるものが現存しています。それらすべてが一致しているわけではなく、書き写す時のミスもあるでしょうし、その時代や状況の中で、意図や思い込みが入ることもあるわけです。

そのような点を含めて聖書の写本は様々な角度から研究されてきました。その中で明確にされてきたことは、聖書が編集された時代は家父長制の時代であり、成人男性優位という環境の中で編集されています。当然のように、女、子どもは排除される時代であり、環境だったわけです。

そのような時代背景、文化的背景の中で編集されたわけですから、当然の事として差別的な表現が入っているのです。

神も差別するのか、という問いに対して、私は差別しないと信じています。ただし、聖書が編集される過程において、神が差別を容認するような表現はあると思います。また、今日選ばせていただいたコリントの信徒への手紙一読む時、パウロは差別主義者ではないと思いますが、差別を助長するような表現があるので、そのあたりを見ていきたいと考えています。

【女性の奉仕者】

このコリントの信徒への手紙一14章33~36節はパウロの女性蔑視発言と捉えられてもおかしくない箇所です。多くのプロテスタント教会では女性の教役者を認めていますが、この箇所やテモテの手紙一2章11~12節にも「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。」とあります。このような箇所から女性の教役者を認めない教団、教会もあるようです。

パウロやテモテがこのような考え方をしていたかどうかは分かりませんが、先ほど言ったように聖書が編集された背景においては家父長制という中で、女性の立場はかなり弱く、黙っていろと言われていたと思います。

しかし、同じパウロがローマの信徒への手紙の最後16章1~2節で「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。 どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。」と語っています。

ここで奉仕者と訳されている言葉はディアコノスというギリシア語で「奉仕者・聖職者」という意味の言葉です。パウロにとってフェベという女性は、援助者であるだけでなく同労者だったのではないかと思われます。

続けて3節では「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。」と語っています。このプリスカとアキラという順番についても、家父長制社会では男性の名前が初めに来るはずですが、パウロは女性のプリスカを初めに紹介しています。

また、ガラテヤの信徒への手紙3章26節以降は初めのキリスト教会における入会式で語られた言葉だと考えられていますが、そこには「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と語られています。

パウロにとっては人種、身分、性といった違いは神の元にあっては関係ないという事なのです。

【差別性】

このようなパウロがなぜ、女性を差別するような言葉を語ったのでしょうか。これも書かれた背景をきちんと理解する必要があります。

コリント教会には様々な問題があったようです。ただ、問題があったというととても大変なことを想像するかも知れませんが、ここに出てくる問題は、現代の教会にも通じるものがほとんどで、いつの時代でも、人が集まる所では同じような問題が起こるのではないでしょうか。

この14章では秩序という事が一つのテーマになっています。礼拝を行う時、無秩序に語りたい人が、勝手に語り出していたようです。語る人たちは聖霊によって導かれたと言って「異言」を語ったり「預言」したりしていたようです。

そして「婦人たち」とあるように、複数の女性たちも同じように勝手に語っていたという事ではないでしょうか。そのような状況に対して「黙っていなさい」と語っているのだと思います。

ですから、ここで語られていることは普遍的にとか、女性全般に向けてという事ではなく、特別な状況の中で、一部の人に対して向けられた言葉として受け止める必要があるのです。

また、最初に言ったように聖書学の研究によると古い写本には34~35節は別の箇所に挿入されているそうです。さらに、これはパウロの手紙に後から付け加えられたかもしれないとする研究者もいるのです。

キリスト教会が形成されていく時、家父長制という社会の中で権威付けされる過程で、意図的に女性を排除するために付け加えられたのかもしれないという事なのです。

こんなことを語ると聖書の正統性を疑うのかと言われるかも知れませんが、そういったことを言おうとしているのではありません。これが正統なものかどうかという事ではなく、人間の中には、このような差別性があるという事実を私たちは認めなければならないのです。

神はすべての人を愛し、分け隔てしないのだから、差別してはいけません。しかし、私たちは残念なことに差別性という性質を持っているのです。そのことに気付いて、そのような棘を持った者として、お互いを認め合い、平和を実現することが出来るなら幸いなのではないでしょうか。

讃 美   新生388 主よわが心に
献 金   
頌 栄   新生671 主のみなたたえよ
祝 祷  
後 奏