前 奏
招 詞   詩編103編3~5節
讃 美   新生  9 地に住む人びと
開会の祈り
讃 美   新生339 教会の基
主の祈り
讃 美   新生 41 いとも慕わしきイエスの思い
聖 書   マルコによる福音書15章42~47節
                     (新共同訳聖書 新約P96)

「葬りの時」                    マルコによる福音書15章42~47節

宣教者:富田愛世牧師

【葬り】

今日のメッセージの準備をしていて、ある牧師の言葉を思い出しました。実はその言葉とは10年以上前に実際に聴いたのか、それとも本で読んだのか覚えていないので、出典が明らかではありません。

ですから正確な言葉ではないかも知れませんが、このようなものです。それは「『死んだら葬られる!』これは一見『当たり前』なことである。しかし、本当に『当たり前』なことだろうか?実は、そんな問いが頭の中をかけめぐっている。豊かな人間関係が喪失されている所で、はたして『葬られる』という関連性は成り立つのだろうか?」という問いかけでした。

私たちが「普通」に死んだ場合「普通」に家族や知人に看取られて「普通」に葬られるでしょう。しかし、「普通」ではない場合、どうなのでしょうか。

実際に私がこの言葉を聞いた時には、今のような新型コロナウイルスによるパンデミックが起こる事など想定していませんでした。ですから当たり前のように「普通」に死んだらと言っていますが、今は新型コロナウイルスによる感染で「普通」ではない死に方というものが、当たり前のように現実になっているのです。

そして、家族が看取ることもできずに火葬されるという事が当たり前のように行われてしまう状況にあるのです。

パンデミックという状況も「普通」の状況ではありませんが、イエスの十字架の死というものも、やはり「普通」の状況ではなかったはずです。

イエスの死と葬りにおいて「普通」でなかった点を挙げると、第一にそれは犯罪者の死だったということです。私たちは聖書を読み、全体像が分かっているし、今この話を聞いている多くの方はクリスチャンなので、イエスの死が犯罪者の死だったということについて認めたくないと思います。

しかし、客観的に見るならば、確実に犯罪者の死だったのです。現代のような人権意識はありませんでしたから、犯罪者の死に対する社会の仕打ちは今以上に過酷なものだったはずです。多くの場合は人間として葬られるというよりも、物として捨てられてしまうような最後だったようです。

【準備の日】

第二に「普通」ではない点として、時間的な余裕がまったくなかったということです。この箇所から、イエスが十字架に架かった日が金曜日であったことが証明されます。

当時のユダヤの日にちの数え方は、現代とは違っていて、日没から一日が始まりました。そして、土曜日は安息日なので、金曜日の日没からは安息日規定に則って、様々な行動が制限されていたのです。

申命記21章22~23節では「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。」と命じられています。

十字架にかけられた犯罪者の死体を翌日まで放っておくことは許されず、ましてや安息日まで放っておくことはユダヤ人一般にとっては考えられないことだったようです。

イエスが息をひきとられたのが午後3時で、日没が5時から6時にかけてだと想像されますから、2、3時間のうちに埋葬しなければならなかったのです。つまり、イエスの死から埋葬までの時間は非常に限られた時間で、とにかく早く事を済まさなければならなかったのです。ここに、人の感情、思いとはかけ離れた社会の枠組み、時間的束縛との戦いがあるように思えるのです。

一人の男の死を悲しむ暇もなく「決まり」の中で、ただ「早く、早く」と物事を進めようとする現代社会の冷たさを連想させるのです。アリマタヤのヨセフの心情、そして、現代社会で忙しく生きる私たちに対する問いかけとして、谷川俊太郎の「急ぐ」という詩を紹介します。(注:著作権の関係で掲載できません)

本当に急がなければならない事など、そんなにたくさんはないのではないでしょうか。

【大胆に】

第三に「普通」ではない点として、家族や親しい者によって葬られたのではないということです。今のコロナ感染による死と葬りに近いものがあるようにも感じさせられます。

弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまい、家族は初めからイエスとの関係を持とうとしなかったわけです。かろうじてガリラヤから従って来ていたマグダラのマリヤをはじめとした女性の弟子たちが側にはいましたが、遺体を納めた場所を見つめるだけでした。そして、ここで登場するのがアリマタヤ出身のヨセフという男でした。

このヨセフは「身分の高い議員で、神の国を待ち望む」男でした。イエスの遺体が埋葬されるためには、そんなヨセフの社会的、経済的地位が必要だったのです。

このヨセフは43節を見ると「勇気を出してピラトの所へ行き」と書かれています。きっと相当な勇気が必要だったと思います。ここでヨセフが勇気を出して遺体の引き取りに出てきたことが、逃げてしまったイエスの弟子たちとは対照的に描かれているように見えますが、ヨセフも以前はユダヤ人をはばかって隠れていた(ヨハネ19章)のです。いつでも勇気を持っていたのではなく、勇気を持って行動する時が、神によって備えられ、その時がくれば、そのように押し出されてしまうのです。

44節を見るとピラトはこんなにも早くイエスが死んでしまったことに疑問を持っていたように見えます。百人隊長を呼んで、その死を確認しているのです。現代では医師の死亡診断書が必要なように、当時も死の確認が必要だったようです。まして犯罪者として死刑に処せられているわけですから、なおさら重要な事柄だったと思います。

そして、マルコ福音書が丁寧にそれを記しているということは、確かにイエスが死んだということを強調しているのです。また、もしこのヨセフが「身分の高い議員」でなかったとしたら、イエスの死体は引き渡されなかったかもしれません。

ヨセフは限られた時間の中で、亜麻布を買い、墓を用意し、埋葬の準備をしました。そして、このヨセフの働きによって3日目に起こるイエスの復活の準備が整えられたのです。

【見届ける女たち】

イエスの埋葬という最後の場面で、今までとは違う人々が登場し、人間イエスの最後を締めくくられるということは、とても興味深いことだと思います。

しかし、従い続ける人々もいました。それがガリラヤから従い続けた女性たちだったのです。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤの2人がここに名前を記されていますが、彼女たちはイエスの死を確認した証人であり、埋葬を確認した証人であり、さらに3日目の復活に遭遇する、復活の証人でもあります。

死と埋葬だけの証人だとするならば、悲しみと苦しみしかありません。実際にこの箇所における彼女たちの心の中には深い悲しみや何もできない無力感からくる絶望が支配していたのではないかと想像します。しかし、神は彼女たちを哀れんで、その後に最高に名誉ある復活の証人として用いられるのです。

イエスの葬りという場面において、存在を認められなかった女性たちが証人として、その役割を果たし、異邦人である百人隊長が信仰の告白に導かれ、社会的な地位や身分のため、大胆にイエスに従えなかった者が、最後の最後に用いられたということは、とても重要なことなのです。

つまり、ここではユダヤ社会の「常識」ですが、現代に当てはめていくならば、人間社会の「常識」によって決め付けられている事柄や排除されている者たちが存在している。そんな「常識」を神は福音によってくつがえされ、そんな人々を神は見捨てていないのです。必要な時に、必要な場面で豊かに用いられるのです。

今、私たちはどんな「常識」に縛られているのでしょうか。罪に覆われている時、縛りを感じなくなり、排除されている人を見ることができなくなってしまうのです。しかし、福音によって光が当てられ、あらわにされる時、縛られている事に気づかされ、排除されている人に目が止まるのです。そして、気づいた人は解放を求めて動かされてしまうのです。

讃 美   新生460 戸口の外にイエスは立ちて
主の晩餐式
献 金   
頌 栄   新生671 主のみなたたえよ
祝 祷  
後 奏