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「ブーメラン発言」 ローマの信徒への手紙2章1~11節
宣教者:富田愛世牧師
【ブーメラン発言】
ギリシアの昔話にこんなお話があるそうです。「人間は誰でも前と後ろに2つの袋を下げている。そして自分の欠点は背中の袋に、他人の欠点はお腹の袋に入れて歩いている。したがって自分の欠点は見えないが、他人の欠点はよく見える。前の袋がどんなに重たくても落ちないのは、背中の袋にも同じだけの重さの自分の欠点をつめている証拠である」というお話だそうです。
私たちは、自分の欠点を棚に上げて、他人を厳しく批判したり、裁いたりします。イエスはマタイ福音書7章1~5節で「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」と語っています。
今日の箇所は大前提として、ユダヤ人の偏った選民意識に対する批判があります。それはユダヤ人以外の異邦人はすべて罪人である。そして、ユダヤ人は罪を犯したとしても、神に選ばれているのだから、問題にされないで済む、というような自分勝手な、偏った考え方でした。
1章後半でパウロは偶像礼拝の罪を厳しく戒めています。それを聞いたユダヤ人たちは、偶像礼拝をする異邦人を断罪し、自分たちには関係のないこととして聞いていたようです。
しかし、2章に入りパウロはユダヤ人に向けて語り始めました。1節をもう一度読むと「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない」とあります。この「弁解の余地はない」という言葉は1章20節にも出てきていて、それを聞いた時、ユダヤ人は「その通りだ。偶像礼拝をし、神を神としない異邦人には弁解の余地はない、裁かれるべきだ」と批判していたのではないかと思います。
その同じ批判が今、自分たちにも帰って来たのです。最近流行の言葉でいうなら「ブーメラン発言」という形で自分たちに対する批判として帰って来たのです。
【ユダヤ人の選民意識】
当時のユダヤ人は、神と自分たちの関係は特別なものだと思い込んでいました。旧約聖書には外典や疑典と呼ばれる書物があります。それは旧約聖書をキリスト教の聖典として編集する時に相応しくないと判断された書物です。カトリックとプロテスタントでも編集の仕方が違うので、カトリックの旧約聖書には続編と呼ばれるものも含まれています。
いずれにしても聖典としてはふさわしくないかも知れませんが、聖書を知るための資料としてはとても大切な書物です。その中に「ソロモンの知恵」というのがあります。その15章2節にこうあります。
「たとえわれらが罪を犯してもなお、われらはあなたのもの、力はあなたのものだ、と知る故に。しかしわれらは罪を犯さないだろう。あなたのものとされたことを知るゆえに。」
神に対する信頼という点においては、素晴らしいものがあるようにも思えますが、選民意識という独りよがりの信仰が色濃く出ていて、調子よすぎるように思えるのではないでしょうか。
神に選ばれることによって、私たちは義とされます。しかし、ここでハッキリとしておかなければならないことは、正しい人間だから選ばれたのではないということです。もし、正しい人間だったから選ばれたのなら、少しは誇ることができるかもしれません。しかし、そうだったとすれば、神の恵みは恵みではなくなります。
正しくないにもかかわらず、選ばれたから恵みなのです。正しくない者が、罪深い者が義とされるから恵みなのです。ここをきちんととらえず、勘違いするから他人の欠点にばかり目がいってしまうのです。
私たちが罪を自覚するとき、律法に照らして自覚します。同じように他人の過ちを見ることによって、自分も同じ過ちを犯しているかもしれないと自分に問いかけることも大切なのではないでしょうか。
【痛い思い】
パウロは1~3節までで繰り返し、異邦人の罪を裁くユダヤ人が、同じ罪によって裁かれることを語っています。ユダヤ人に対する非常に厳しい言葉が並べられています。しかし、パウロ自身がユダヤ人であるということを忘れてはいけません。パウロはこの激しく、厳しい言葉をローマの教会の信徒たち、ユダヤ人クリスチャンに向けて書いていますが、それは同時に自分自身に対しても語っているということです。
裁くということは自分が正しいと確信している時に生まれる心です。そして神もまた正しい自分の味方についていてくれると思い込んでいて、自分が神の側にいて、神も自分の側にいてくれると信じ込むのです。しかし、そんな時、私たちは神から最も遠く離れて行くという罪を犯しているのです。
4節では、そんな人間に対して神は憐れみを持って悔い改めに導こうとしておられることが語られます。ある牧師はこの4節には「神の富、神の豊かさ」が書かれていると言いました。どんなに罪深い人に対しても神は憐れみを持って悔い改めに導こうとされる、これが神の富、神の豊かさだと言うのです。そして、これに私たちがまだぶつかっていないと語っています。
「ぶつかる」という表現は面白い表現だと思います。人ごみの中で人にぶつかったり、家の中で机に足をぶつけたりしたことがあると思います。そこには痛みが伴っていたはずです。ぶつかって「ああよかった」なんて思う人はいません。神の富にぶつかる時、私たちは痛みを伴うのです。
神の前に自分の罪が明らかにされた時、私たちは悔い改めに導かれるのですが、そこには痛みが伴うのです。もし、痛みを伴わなかったとしたら、そこには本当の悔い改めが起こっていません。うわべだけで、人に合わせて、何となくいい人になった気でいるだけなのです。そんな人を5節で「かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています」と語ります。
4節で語られる神の憐れみを軽んじる時、神の怒りが私たちの上に降ります。神の怒りはすべての人に公平に降ることを11節は語っています。神は始めからこの人は悪い人で、この人は良い人、この人はユダヤ人で、この人はギリシア人だからこっちの人に対しては採点を甘くして、天国に入れてあげよう、こっちの人には厳しくして天国に入れるのはやめよう、なんて決めつけません。
すべての人を同じように憐れみ、慈愛を持って慈しんでくださり、寛容を持って赦してくださり、忍耐を持って悔い改めるのを待っていてくださいます。
【回心】
パウロはダマスコへ行く途中、復活のイエスに出会い回心しました。この回心という言葉も日本語はとてもおもしろいと思います。悔い改めと回心とはセットとして考えられるので、回心という言葉を「改心」改める心と書く人がいます。しかし、パウロの回心は回復の回、回るという字を書きます。
仏教ではこれを「えしん」と読み、正しい方向に心の向きを変えることを意味します。キリスト教では、今まで罪の方向を向いていた心の向きを変えることなのです。改めるだけではなく、180度向きを変えることが回心なのです。
パウロはダマスコへ行く途中の道でこれを経験しました。劇的な経験だったわけです。時々、証しをする時にパウロのように劇的な経験をして、それを語られる方がいます。私は昔、そのような人のことをうらやましく思っていました。
しかし、大切なのは回心することであって、時間ではありません。ある時、一瞬にして回心の経験をする人もいますが、そうではなく、何年もかけて、少しづつ経験する人もいます。どちらでも構いません。それぞれに最適な神の時というものがあるのです。
ただ、すぐに回心した人は、その喜びをすぐに表すことができるでしょう。そういう人は、そうすることが神の計画だったからです。ゆっくり回心する人は、ゆっくり時間をかけて少しづつ喜びを表していけば良いのです。それが神の計画だったのです。
みんなが一度に同じようになることは、実際には気持ち悪いことだと思います。どちらにしても神の憐れみの中で、痛みを味わい、自分の無力さを思い知らされ、私たちは変えられていきます。その中で神の光を見いだすのです。
讃 美 新生454 罪に悩む者みな 献 金 頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の 祝 祷 後 奏