前 奏
招 詞   イザヤ書26章3節
讃 美   新生 87 たたえまつれ 神のみ名を
開会の祈り
讃 美   新生194 まぶねの傍えに
主の祈り
讃 美   新生148 久しく待ちにし
聖 書   ルカによる福音書1章46~56節
                 (新共同訳聖書 新約P101)

「解放の歌」                   ルカによる福音書1章46~56節

宣教者:富田愛世牧師

【一方的な選び】

アドベントの第3週目に入り、いよいよ来週はクリスマス礼拝となりました。本日、与えられた聖書の箇所はルカ1章46~56節の有名な「マリヤの賛歌」と呼ばれる箇所ですが、このマリヤの賛歌という美しい響きの言葉とは裏腹に、内容的にはとても厳しいことが書かれています。

ひと言で言うならば、神に対する絶対的な服従という事です。服従という言葉の持つイメージはあまり良いものではないので、個人的には使わずに済めば良いのにと思うのですが、神との関係においては使わなければならない場面が出てきます。もちろん、人との関係においては必要のないことだと思います。しかし、神との関係においては対等ではないのですから、必要になってくることなのです。

さらに興味深いことは、当時の社会は父権制社会、男性優位の社会体制でした。その中で聖書に記されている女性と男性の生き様がとても対照的に語られているのです。男性優位ですから、男性中心に書かれ、男性に都合よく書かれています。しかし、少なくともクリスマスの出来事においては、男性よりも女性にポイントが当てられているのです。

服従というテーマから見ても、ここに登場する男性は、素直に神に服従していません。何かが起こってから思いとどまって、神に服従するようになっているのです。

今日は読んでいませんが26節からの箇所で、御使いガブリエルによってマリヤが救い主の母となると告げられました。マリヤは突然の出来事に戸惑いながらも38節に書かれているように「お言葉どおりこの身に成りますように」と主のみ告げを受け入れているのです。

この不思議な出来事の後、マリヤは親戚であるエリサベトを訪ねました。エリサベトもマリヤと同様にバプテスマのヨハネの母となることを御使いにより告げられていました。

なぜマリヤがエリサベトの所に行ったのか、聖書は何も触れていません。日頃から行き来があったのかも知れません。しかし、この不思議な出来事が続いていくという流れの中で、想像できることは、この二人は親戚だから会いに行ったというより、聖霊の促しによってお互いの恵みを分かち合うように運ばれていったということなのです。

マリヤもエリサベトも何かができたとか、人より秀でているという事ではなく、主の計画を受け入れるという、完全な服従の態度を示すことにより主に喜ばれる者となったのです。

【エリサベトの喜び】

マリヤが訪ねてきた時エリサベトは喜びましたが、それだけではなく、そのお腹の中にいたヨハネも喜びおどったと書かれています。私は妊娠の経験がありませんが、ある程度お腹の赤ちゃんが大きくなると動くようですね。それはお母さんにしか分からない喜びだと思います。そして、この時のエリサベトの喜びは、それ以上のものだったのではないでしょうか。この喜びは41節にあるように、人間的な喜びだけでなく、聖霊の満たしによる喜びだったのです。

42節を見ると「声高らかに言った」と書かれています。このように書かれていると大きな声を出しているけれど、冷静に何かを言ったように感じるのではないかと思いますが、ギリシア語には「叫んだ」という意味の言葉が用いられています。

つまり、エリサベトの喜びは最高点に達していたことを表しているのです。日本人はあまり「叫ぶ」という事をしないように思われていますが、お祭りやスポーツ観戦では、多くの生粋の日本人が叫んでいます。喜びを表現する時の最大の表現方法の一つだと思うのです。

この喜びの中でエリサベツは信仰告白をしているのです。その言葉が42~45節まで続いています。そして「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と締め括っているのです。

はじめに言ったように、この二人は親戚同士だったから喜びを分かち合うことができたのでしょうか。そうではありません。親戚というのは仲が良いようで意外と張り合っていることの方が多いのではないでしょうか。妬みや羨む気持ちが起こるのです。この二人はお互いに「信じる」事の出来た二人だったので、喜びを分かち合えたのです。

【マリヤの賛歌】

さて、聖書に書かれている出来事から、今度は私たち自身に目を向けていきたいと思うのですが、だからと言ってエリサベトやマリヤに起こったような出来事が、私たちの身に起こるとは考えにくいことです。しかし、この箇所にはまだ直接登場しませんが、これからマリヤの周りには様々な人が現れると思います。私たちも、そのような一人だと思うのです。その時、マリヤにどう向き合うでしょうか。

マリヤは一方的に選ばれ、大きな祝福と恵みを受けました。繰り返しますが、マリヤに何かが出来たとか、人より秀でているものがあったのではありません。一方的な選びなのです。この選びを、私たちは祝福できるでしょうか。

教会の中で用いられる人というのは、ある意味で選ばれた人です。私の中に全くないかと言うと嘘になりますが、私は連盟の中で用いられることにあまり興味がないのです。30年ほど前は少年少女大会や音楽研修会でユース向けのプログラムや音楽の面で用いられました。今は干されていますけど。ある時、教会音楽研修会の講師となった時、専門的な音楽教育を全く受けていないので、専門に教育を受けた人をサポートに付けて欲しいとお願いしました。そして、友人の牧師がサポートに入ったのですが、彼が「今回は、このような大舞台に引き上げてくれてありがとう」と私にお礼を言ってきたのです。

私としては、彼が引き受けてくれたことに対して、私がお礼を言わなければならないと思っていたので、とても戸惑いました。と同時に多くの専門家からは複雑な思いで見られていたということに気づかされたのです。

私たちは神の恵みをたくさん受け、用いられている人を見て、生意気だとか、妬ましく思ったり、反対に羨んだりすることがあるのではないでしょうか。そのような思いの底には、自分の行いに対する成果、ご褒美として恵みが与えられるという思いがあるのす。

51節でマリヤは「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし」と告白しています。神を信じきらないで、自分を神のように高めようとするとき、高ぶった思いが表れるのです。

【主のあわれみ】

私たちは「なぜ、あの人にはすばらしい賜物や恵みが与えられるのか」と考え、神はえこひいきしてるのではないかと思ってしまうことが「ない」とは言い切れないと思います。しかし、神は不公平な方ではありません。

ただ、神の公平や方法というのは、全ての人を同じにするのではありません。大人と子どもに同じ食物を与えることが公平でしょうか。そんなことをすれば、どちらかが体調を崩してしまいます。大人には大人に見合った食物を、子どもには子どもに見合った食物を与えるのが神の公平なやり方なのです。

神からの救いの御業というものは無条件に与えられますが、恵みは無条件というわけではないようです。ご褒美ではありませんが、それに答えなければ、恵みを恵みと思えなくなってしまうのです。

また、恵みが与えられた場合は感謝しなければ失礼です。より多くの恵みを受けたいならば、何かするのではなく、受けた恵みに対して、より多くの感謝を捧げる事が重要です。また、賜物が与えられたなら、それは用いなければ取り去られます。そして、与えられた者は、他人と比べることなく、それを感謝して受け取ればよいのです。

こういう恵みが欲しいとか、こういう賜物が欲しいというのではなく、与えられたものが主の計画の中で必要なものなのです。そのような主の計画よりも自分のほうが正しいと思うところに罪が潜んでいて、その罪によって不平や不満がでてくるのです。

マリヤに与えられた恵みは、救い主の母になるという、とても責任の大きなものでした。自分には荷が重いと消極的になるのではなく、神からの恵みとして受け取って、賛美を捧げる時、服従という言葉は厳しいかもしれませんが、自然に服従している自分を発見するのです。

讃 美   新生177 マリアに抱かれて
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ
祝 祷  
後 奏