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「新しいこと」 イザヤ書43章16~20節
宣教者:富田愛世牧師
【箇所の背景】
このイザヤ書の預言が語られたのは、BC6世紀後半にバビロニアによってエルサレムが破壊され、多くの民が捕囚としてバビロニアに連れて行かれた頃だと考えられています。
イスラエルの民は神によって守られているという漠然とした思いを持っていたのですが、現実にはバビロニアによって滅ぼされてしまいました。この現実を前にして、無気力になっていたのではないかと思います。
しかし、当時のバビロニアの占領政策やイスラエルの捕囚民に与えられていたある程度の自由から考えると、必ずしも否定的な状況だったというわけではないようです。つまり、捕囚として連れていかれたのは、ユダ王国の高官や様々な技術者、職人たちだったと考えられています。そして、バビロニアでの生活に対する制約はそれほど多くなかったようです。自由に商売することも許されていたようです。
そして、ユダに残されたのは、多くの小作人のような貧しい農民で、これらの人々は破壊されたエルサレムを目の前にしながら生活していたので、こちらの方が悲惨な状況にあったかもしれません。
ただ、経済活動などは許されていましたが、周りにいるのはバビロニア人で、彼らは偶像崇拝者だったわけですから、イスラエルの民にとっては居心地の良い場所ではなかったのではないかと思います。
前向きになるならば、様々な可能性があったはずですが、イスラエルの民は神に見捨てられたのかもしれないという思いを強く持ち、無気力になっていたのは事実だと思います。
そんな状況の中で預言者が現れ、イスラエルの民に向かって神の言葉を語り告げたのです。その言葉とは嘆きの言葉ではなく、希望を与えるものでした。今の状況は永遠に続くものではなく、必ずそこからの解放があるのだと預言者は語るのです。
【否定的な思い】
16節から17節で語られるのは出エジプトの出来事を思い起こさせる言葉です。イスラエルの民にとっては、昔の出来事ではありますが、神が必ず自分たちを救ってくださるという、心の拠り所だったはずです。そして、この言葉によって神ご自身が自己紹介をし、今も生きて働いておられるということを語っているのです。
そして、18節で過去のできごとを思い起こして「昔はよかった」と、先のことを切り開こうとしない民に対して「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」と神は語られるのです。
しかし、この言葉には矛盾を感じるのではないでしょうか。昔の出来事として、神がイスラエルをエジプトの奴隷生活から救い出したように、今はバビロニアによる捕囚生活から救い出してくれるという期待をするなというように聞こえると思います。
確かにその通りで、預言者の言葉はエジプトから救い出してくれた時のことを思い出すなと語ります。しかし、出エジプトの出来事を思い出してみてください。エジプト軍の追っ手を神が追い散らし、イスラエルの民が荒野へと逃げ延びた時、水がない、食べ物がないと不平不満をあげつらい、挙句の果てに「エジプトでの生活は良かった」と言い出したのはイスラエルの民でした。
都合の良いことだけを思い出し、都合の悪いことは、なかったことのようにしてしまうのが人間の悪い癖です。この悪い癖が信仰面においても顔を出してくることがあるのです。信仰とは人生を振り返り、良かった時を思い起こすことではありません。
私たちの過ちによって、神の示してくださった道を踏み外した時のこともしっかりと思い起こし、それでもなお、敢えて私たちを救ってくださろうとする、神の約束を信じ、前に向かって歩みつづけることなのです。
捕囚という囚われの身にある現実に目を奪われ、縛られている民に向かって、預言者は昔のことに囚われるのではなく、今、神がなさろうとしている新たな道を示しているのです。何もできないような状況にあっても否定的になるのではなく、神を信頼し前進することが大切なのです。
【新しいこと】
振り返るのではなく、前を向いて、前進すれば、そこには「新しいこと」が起こるのです。ただ「新しいこと」と言われて、ワクワクする人ばかりではないと思います。人それぞれに性格が違うわけですから、新しいことにワクワクする人もいれば、新しいことよりも今までと同じことを繰り返す方が安心する人もいると思うのです。
同じことの繰り返しに安心するということの裏には、新しいことに挑戦することに対する極度なリスク管理というのでしょうか、失敗に対する予防線を張るという思いが強いのではないかと思うのです。
そのようなリスク管理もとても大切なことだと思います。しかし、信仰には、一つの賭けのような面もあるのではないでしょうか。それは無謀なかけではなく、神に信頼するという賭けです。
私たちの人生には、必ず選択に迫られる場面が登場します。その時、何を頼りに選択するのでしょうか。多くの人は今までの経験や常識といったものを一つの基準にして選択すると思います。今までの経験を通して、同じ失敗はしないようにするとか、常識的に多くの人の賛同を得ないだろうとか、そういった基準によって判断するはずです。
しかし、そのような経験や常識という人間的な思いに囚われているだけでは、前に進めないこともあるのです。旧約聖書に登場する人々を見る時、経験や常識以上に神の言葉に従うという姿勢を見ることができます。
つまり、私たちの経験や常識という人間的な思いに囚われず、そこから自由になって、霊の目を開いて見るならば、それは芽生えているのです。
私たちの状況は「荒野」の中かも知れません。しかし、「荒れ野に道」が敷かれ「砂漠に大河」が流れると約束されるのです。それもただの川ではなく、大河が流れると語っているのです。
砂漠の中に大河が流れるなどということを誰が想像するでしょうか。命を感じることのできない、死の世界のような砂漠に川が流れるのです。砂漠の中での水とは命を意味します。つまり、大河が流れるということは、そこから命が生まれるということを現しているのです。死や絶望といった状況の中に、命や希望を見出していくことが信仰者の歩みなのではないでしょうか。
【それを悟らないのか】
私たちの歩む人生の前には様々な「荒野」や「砂漠」が横たわっています。今も一人ひとり違う悩みを抱えているはずです。荒野や砂漠を前にして、ただ立ちすくむのか、それとも神に信頼を置いて前に進むのか、私たちはまさにそのような選び取りの中に立たされているのです。
そして「野の獣、山犬や駝鳥」が神を崇めるという現実を目にする時、私たちは悟らなければならないのです。否定的な思いに囚われず、前を見るならそこには、もう芽生えているのです。
教会についても同じことが言えます。コロナ危機という状況になり2年になろうとしています。そろそろ疲れが出てきて「あの頃は良かった」という気持ちが表面に出てくる時期です。
私自身も当たり前のように礼拝を捧げていた時を思い起こして、早く元通りになったら良いのにと思います。しかし、ウイズコロナと言われるように、今まで通りとか、前と同じということにはならないのかもしれません。
そこで大切なことは、今日の聖書にあるように「悟らないのか」という問いかけなのではないでしょうか。元通りにすることも考えながら、さらにこの2年で新しく始めた様々な取り組みについて、続けるべきものと今だけのものとを仕分けする必要があるのです。
神のなさる業には、決して無駄なものはありません。もちろん、今すぐにその意味を理解できるかどうかはわかりません。もしかすると私たちの目に、今は無駄、無意味に映るかもしれません。だから、芽生えていることに気付かされ、悟らなければならないのです。
讃 美 新生397 み神を愛する主のしもべは 主の晩餐式 献 金 頌 栄 新生668 みさかえあれ 祝 祷 後 奏