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「神の誠実」 ローマの信徒への手紙3章1~8節
宣教者:富田愛世牧師
【ユダヤ人の優れた点】
今日の箇所は、ひとつの信仰問答のような形で書き進められています。1章後半から人類の罪について、そして、2章に入ってからは具体的にユダヤ人の罪を語りました。そこまで一方的に語ってきたのですから、当然のこととしてユダヤ人からの反論があるだろうと想定しているようです。具体的には4つの質問を想定しています。もしかすると、いくつかは直接、パウロが受けた質問かもしれませんが、いずれにしろ、今までの経験の中からの想定だと思います。
まず、最初にパウロが想定した質問は、1節にあるように「ユダヤ人の優れた点は何か。そして割礼にどんな価値があるのか」と言うことです。2章17~29節において、律法を持っているといいながら、そこに書かれている事を行わない中身のないユダヤ人、そして形だけの割礼に何の意味があるのか。と強い調子で批判しました。しかし、パウロが批判しているのはユダヤ人そのものではなく、間違った解釈による選民意識です。
だから、この1節の「ユダヤ人の優れた点は何か」と言う質問に対して、2節の答えにあるように「あらゆる面からいろいろ指摘できる」と語ります。ユダヤ人には優れた面がたくさんあるというのです。それは「まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」とあります。ここのところ、新改訳聖書や口語訳聖書では「第一に」となっています。「第一に」という言葉に聞き覚えがありませんか。1章8節には「まず初めに」と書かれていますが、これも新改訳や口語訳では「第一に」となっていると話しました。第一があるのに第二、第三はありません。これは順番を表す言葉ではなく「一番重要なことはこれですよ」という意味でした。ここでも同じ言葉が使われ、一番重要なことは「神の言葉」を委ねられたことだと語るのです。
このように言われると「なぜユダヤ人が選ばれたのか」と質問する人がいます。しかし、ここには理由はありません。事実だけがあるのです。そして、この事実だけで十分なのです。ここに理由を付けようとするから、話がややこしくなり、間違った選民意識を持つようになってしまうのです。
神の救いの業も同じです。そこには何の理由もありません。クリスチャンホームに生まれたとか、クリスチャンの友達がいたとかは、大切なきっかけでしょう。しかし、それが理由ではありません。ただ、神の恵みによって救われたのです。神の選びには理由はありません。あったとしても、私たちには知らされないものですし知る必要もありません。
【神の誠実】
2つ目の質問は3節にありますが、これはちょっと分かりにくい内容だと思います。これは2節からの続きで、神の言葉が委ねられたということは、ユダヤ人は神の御心を知り、それを実行しなければならないということです。そうであるにも関わらず、出来ない、あるいはしたくない不誠実な者がいました。不誠実な者が神との約束を破ったからといって、神も約束を破るのでしょうか。と言うことなのです。
それに対してパウロは絶対にそんなことはないと強い口調で語ります。人間のもつ、愚かな行為の一つに「復讐」というものがあります。目には目を。歯には歯を。と言って復讐を正当化します。この3、4節の事柄はそこまで大きな事柄ではありませんが、人間の常識から考えるなら、神との約束を最初に破ったのは人間だから、神も約束を破る事が出来ると考えます。
この場合、神が約束を破るのは当然の権利であって、何ら悪いことではないとするのです。しかし、ここでパウロは旧約聖書のことばを引用して神の誠実さを語ります。それは詩篇51編です。
この詩篇はダビデ王が、自分の部下であるウリヤの妻、バトシェバに一目惚れし、過ちを犯してしまった。そのためにウリヤを一番の激戦地に送り殺してしまいました。その出来事を預言者ナタンがダビデ王に問い正し、ダビデ王が悔い改めた時の詩です。神の誠実さというものは、人間とはくらべものになりません。
私たち人間は打算的です。買い物をしてレジの人が間違えてお釣りを多くくれたらどうしますか。誠実に対応するとしたら、多い分のお釣りを返します。しかし、そんな人を見て「お人好しだ」という人もいます。もちろんすべての人がそうだとは言いませんが、返さなかったとしても、その人を悪い人だと思わないと思います。
誠実に返しても、心の底では「返さなくてもよかったのに」という思いがあり、神に対しても、誠実な行いに対する報酬を求めるという、打算的な思いがありました。人間の誠実さなどというものは、しょせんこの程度のものではないかと思います。
【開き直り】
3つ目の問いかけは5節です。ここはリビングバイブルという聖書を読むと良く分かるので、ちょっと読んでみます。
「ところが、こんなふうに主張する人がいます。『でも、私たちの神様に対する不忠実は、むしろよかったのではありませんか。私たちの罪は、かえって目的にかなうのではないでしょうか。なぜなら、人々は、私たちがどんなに悪い人間であるかを見て、神様がどんなに正しい方であるかに、気づくでしょうから。すると、私たちの罪が神様の役に立っているのに、罰せられるのは、不公平ではありませんか。』ある人々はこんな理屈をこねるのです。」
これはもうただの開き直りとしか思えません。私たちの罪深い行為によって、神の義、神の正しさが、より際立って見えるというのです。この理屈そのものが正しいものではありませんが、このような誤解をする理由の一つとして、神の義と人間の義を同じ土俵で考えるという間違いがあるのです。
人間の義というものは、相対的なものでしかありません。歴史の中のある時点において「義」とされるものが、ずっと変わらないわけではありません。時間の経過とともに価値基準が変わり、正しいとされていたものが、間違っていたと言われることはよくあることなのです。
それに対して神の義とは、相対的なものではなく絶対的なものだということです。この違いを理解していないので、このような誤解をして、屁理屈を並べ立ててしまうのです。
このような開き直り、屁理屈に対してパウロは「決してそんなことはない」と強く反論します。一方では罪を見過ごし、もう一方では罪を裁くというようなことは、神には出来ません。先程の3、4節にあるように神は誠実なお方です。絶対的に公平なお方です。
【必要悪】
7節には4つ目の問いかけがありますが、これも同じような内容です。これもまた、リビングバイブルで読んでみます。
「たとえば、もし、私がうそをついたとします。それと対照的に神の真実がはっきりと際立ち、私の不真実が、かえって神様の栄光を輝かすとしたら、神様は私を罪人としてさばき、有罪の判決を下すことなどができなくなってしまいます。」
この社会には「必要悪」と言われるものがあると主張する人がいます。政治の世界や金儲け主義に走る企業などでは、当然のこととされているのかもしれません。何か事を起こすためには、敢えて「悪人」になる人が必要なのだと主張します。
5節とまったく同じような、開き直りの立場からの発言です。これに対してパウロは8節でこう答えています。
「このような論理を突きつめてゆくと、最後には、『私たちが悪ければ悪いほど、神様には好都合だ』ということになってしまいます。しかし、こんなことを言う人がきびしく罰せられるのは当然です。ところが、事もあろうに、私がそのように説教していると言いはる人々がいるのです」
パウロの信仰には人間の罪によって神の義が際立つのだから、人間の罪は必要悪として神から認められている、などという思想は全くありませんでした。しかし、パウロがそのように主張していると、触れまわっている人たちがいるというのです。
たぶんパウロの語る言葉を聞いて、その表面的なことだけを聞きかじることによって、このような誤解をしたのだろうと思います。言葉を正しく理解するためには、語られた背景を理解し、文脈を正しく理解しなければなりません。文脈を正しく捉えなければ、まったく逆の意味に捉えてしまうこともあるわけです。
しかし、現実には文脈を正しく捉えず、表面的な言葉だけを捉えて、間違った発信をする人が多いのかもしれません。そして、そういう浅はかな人は、その言葉を頭の中で反芻したり、想像力を膨らませて考えたりせず、すぐに言葉に出して避難中傷してしまうのです。
パウロもそのような人たちからの避難中傷を受けたのです。だから「こういう者たちが罰を受けるのは当然です」と厳しく締めくくっているのです。
『私たちが悪ければ悪いほど、神様には好都合だ』などというように、神の義は相対的に義とされるものではありません。私たちの頭の中には「比べる」ということが染みついているのかもしれません。そこから解放されなければならないのです。そして、絶対的な「義」としての神を心の中に迎え入れなければならないのです。
讃 美 新生572 神わが助けぞ 献 金 頌 栄 新生668 みさかえあれ 祝 祷 後 奏