前 奏
招 詞   歴代誌上16章34節
讃 美   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
讃 美   新生 16 み栄あれ愛の神
主の祈り
讃 美   新生105 くしき主の光
聖 書   ローマの信徒への手紙3章9~20節
                       (新共同訳聖書 新約P276)

「律法の限界」                  ローマの信徒への手紙3章9~20節

宣教者:富田愛世牧師

【優れた点】

 今日の聖書の箇所は1章18節以下のまとめのような箇所です。1章18節から4章25節までは「神の義」が大きなテーマとなっていて、今日の3章20節までは、神の義としての「怒り」がサブテーマのような形で取り上げられています。

神はその正しさを表すために「怒る」こともあります。正しさゆえの怒りです。しかし、ユダヤ人は誤った選民意識を持ち、そのために神の怒りを受けることがないと思い込んでいました。パウロはそのような思いが、間違ったものであることを指摘し、3章1節で「ユダヤ人の優れた点は何か」と問いかけました。

そして、ユダヤ人には律法が与えられていること、神から特別な使命が与えられていることを指摘し、それらが優れている点であると述べるのです。しかし、与えられ、選ばれたということが「優れた点」であって、ユダヤ人そのものが優れているのとは違います。

 9節でパウロは「わたしたちには優れた点があるのでしょうか」と問いかけます。そして、すぐに「全くありません」と答えを出しています。このような言い方だと、自己否定をしているように感じるかもしれませんが、いかがでしょうか。

 全く優れた点がないと言い切られてしまうと「私には生きている価値があるのか」と考え込んでしまうかもしれません。私たちひとり一人は神によって創造された被造物なのですから、必ず優れた点を持っているのです。神の最高傑作なのですから、優れた点がないはずがないのです。

 しかし、ここでパウロが問いかけているのは、そのようなことではありません。1章18節からの流れで、神によって「義」と認められるような優れた点を持っていますか?ということなのです。このように問い直されるならば、なるほど、そう言われれば、パウロの答えのように「全くありません」と答えなければならないように思えるのではないでしょうか。

【罪人である】

パウロはこのような問いかけをし、自分の中に持っていた答えを語りながら、その理由は、というように話を進めています。その理由は「既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」からなのです。

パウロは「ユダヤ人とギリシア人は罪の下にある」と言うわけですが、私は日本人なのでどうなるのだろうと心配する人がいるかもしれません。日本人だけではありません。韓国人もアメリカ人もロシア人もいるわけで、それらの人はどうなのだろうか、ユダヤ人でもギリシア人でもないから大丈夫なのだろうかと考えるかもしれません。

しかし、ここでパウロが語るのは国籍の問題ではありません。ユダヤ人というのは神に選ばれた者、つまり選民と言われる人たちを指しているのです。そして、ギリシア人とはそれ以外の人々、つまり、ユダヤ人から見るならば、異邦人と呼ばれる人々のことを指しているのです。

私たち日本人もユダヤ人から見れば異邦人ですから、ギリシア人という括りに入るわけで、罪の下にあるということです。つまりは全ての人が罪の下にいる。罪人であるとパウロは語るのです。

罪人という言い方は、教会の中にいるクリスチャンにとっては聞きなれた言葉かもしれませんが、一般的には耳の痛い言葉だと思います。私にはそういう経験はありませんが、よく聞く話の一つに、友人を教会に誘おうとしたクリスチャンが、友人から教会に行くと「あなたは罪人だ」と言われるからいやだと言われるというものがあるそうです。

「なぜ私が罪人なのか」という疑問をいだく人はたくさんいるのではないかと思います。とりあえず、今まで警察の厄介になったこともないし、暴力を振るったことも、いじめをしたこともない。親の言うことにも、先生の言うことにも従ってきた。困っている人を見たときは声を掛けて手伝ったし、誰にも迷惑を掛けたことがない。こんな私がなぜ、罪人なのかと。

もっともな意見だと思いますが、これはユダヤ人とまったく同じ考え方なのです。そういう人にとっては「道徳」が律法になっているのです。聖書の語る罪とは道徳的な違反行為や法律的な違反行為ではなく、神との正しい関係を失った状態を指しているのです。

【旧約聖書も語っている】

さらにパウロはここで旧約聖書の言葉を引用して、すべての人が罪人と呼ばれるのかを証明しています。それは、ユダヤ人にとって律法を含めた聖書そのものが権威を持っていて、神の言葉そのものだととらえていたからなのです。

ユダヤ人は律法を守ることによって、神から義と認められると考えていました。しかし、その律法を含む聖書全体を見るとそこには人は罪人であることが明記されているのです。

3章10節から18節までは旧約聖書の引用です。ただし、これらはパウロが一字一句書き写したのではなく、自由に引用しているということと、パウロが用いた聖書が七十人訳聖書だったということから、私たちが使っている聖書とは必ずしも一致しているわけではありません。

そのことをふまえて見てみると、

10~12節は、詩編14編1~3節と詩編53編2~4節を引用しています。この二つの詩編はほとんど同じことが書かれているので14編の方をお読みします。

「神を知らぬ者は心に言う 「神などない」と。人々は腐敗している。

忌むべき行いをする。善を行う者はいない。

主は天から人の子らを見渡し、探される 

目覚めた人、神を求める人はいないか、と。

だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。

善を行う者はいない。ひとりもいない。」

13節以下も同じように旧約聖書の言葉が引用されていますが、今ここで全部を読むには時間が足りないので、それぞれの箇所だけをお伝えしておきます。

13節の前半は、詩編5編10節

13節の後半は、詩編140編4節

14節は、詩編10編7節

15~17節は、イザヤ書59章7節

18節は、詩編36編2節がそれぞれ引用されています。

 

このように聖書は私たちが神を認めようとせず、神が喜ばれないような悪い言葉を口にし、律法を守ろうとせず、破っているという事実をハッキリと語っています。

【律法は何のため】

それでは、何のために神は私たちに律法を与えたのでしょうか。それは罪を自覚させるためでした。「そんなことしなくても罪ぐらい自分で判断できる」と思う方がいるかもしれません。本当にそうですか。

また、私の失敗談で申し訳ないのですが、私は高校生の時に電車で学校に通っていました。時々、友達と学校の帰りに渋谷などに遊びに行くこともあったのですが、定期を持っていたので、渋谷からの帰りは一番安い切符を買って、自分の降りる駅で定期を見せて降りていました。いわゆる「キセル乗車」をしていたわけです。当時高校生でしたが、私はキセル乗車という概念を知りませんでした。キセル乗車をしているのに、それを生活の知恵か何かのように考えていました。

キセル乗車が違法行為であるということを知らなかったので、平気でキセル乗車をしていたわけです。もちろん、知ってからはしなくなりましたが、もし知らされなかったらずっと続けていたと思います。

罪を犯すという行為は、もしかすると知らずに犯していることの方が多いのかもしれません。そして、聖書の語る罪という時、それは道徳的なものも含まれますが、その根本はそういうことではありません。神との関係性なのです。

神との関係性ということで、最初の罪は、創世記に書かれています。神は創造のはじめに人間を男と女に創られました、そしてエデンの園と言われる場所に住まわせてくださったのです。そこで最初の人間である、アダムとエバは何不自由なく暮らしましたが、ある時、サタンの誘惑を受け、神との約束を破ってしまうのです。神との約束を破ったことによって、神との関係は正しいものではなくなり、神に背く存在となり、罪の下に落ちてしまったのです。

もともとは神を求める存在として創られたのに、罪によって神から離れようとする思いも同時に持つようになってしまったのです。まったく正反対の思いを持つことはとても辛いことです。これが罪の報酬というものなのです。

この二つの思いをバランス良く持つことができれば良いのかもしれませんが、私たち人間には無理です。必ずどちらかに片寄ってしまいます。そして、放っておくと罪の誘惑に負けてしまうのが人間の愚かさ、弱さなのです。だから、律法によって罪を自覚させる必要が生まれたのです。