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「報酬か、恵みか」 ローマの信徒への手紙4章1~8節
宣教者:富田愛世牧師
【裏付け】
先週、先々週の箇所でパウロは「人が救われるのは行いによるのではなく、ただ信仰のみだ」と語っていました。今日の箇所は「信仰のみ」という主張が聖書を通して正しい主張だということを裏付けています。
私たちが誰かに何かを伝えるとき、その人が自分の主張をすぐに信じたり、受け入れてくれか不安になるので、その裏付けのために様々な証拠となるようなことを探します。さらに過去の例や学者の言葉を引用して信憑性がある主張して、それらを裏付けとするわけです。
パウロはローマの信徒への手紙の中で「信仰のみで義とされる」という福音の本質を語っているわけですが、当時の人々は、この言葉をすぐに受け入れたでしょうか。少なくともユダヤ人にとっては、すぐに受け入れることのできることではありませんでした。
今まで自分たちが大切にしていた伝統が、根底から崩されるようなことなので、簡単には受け入れることが出来なかったはずです。ですから、しっかりとした裏付けが必要だったのです。そのためにパウロは聖書の言葉を用いているのです。ここで引用する聖書とは、たぶん七十人訳聖書と呼ばれるヘブル語聖書をギリシア語に翻訳したものだと考えられています。
新約聖書の記述の中には直接でてきませんが、歴史的に見ると「信仰のみ」という主張に対するユダヤ人や律法主義的なクリスチャンたちの反論も聖書の言葉を用いてなされていたようです。その代表的なものが創世記26章5節にあり、こう書かれています。
「アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである」
この最後にある「戒めや命令、掟や教えを守ったからである」という言葉が行為を表しているというのです。しかし、この時点では、まだ十戒は与えられていませんし、前半にある「わたしの声に聞き従い」という信仰の姿勢から導かれ、戒めや命令、掟や教えを守ることができるようになったのではないでしょうか。
【アブラハムの場合】
パウロはユダヤ人にとって、血筋的にも信仰的にも、その父祖として尊敬されているアブラハムの場合を例に上げました。アブラハムは神から直接、その信仰によって義と認められました。
アブラハムの信仰は創世記12章にある召命から始まっています。何の予告もなしに、突然神から「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」と命じられました。
私なら色々な理由を付けて、取り敢えずは断ると思います。しかし、アブラハムはただ、その言葉に従いました。その後15章では、高齢で子どものいないアブラハムに向かって「あなたの子孫を天の星のように増やす」と語られた言葉を信じました。6節では「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。
神のために何かをしたわけではありません。ただ、その言葉を信じたことによって、義と認められたのです。この後も、やっと与えられたひとり息子を、今度は生贄として捧げなさいと命じられます。アブラハムの信仰の深さを強調している出来事です。
創世記22章でアブラハムは神の命令通り、モリヤの山に行きイサクを捧げようとします。しかし、よく考えるとこの行為は信仰と同時に行いでもあると反論を受けるところです。また、信仰には行いがともなうのだという主張にもつながります。とても示唆に富んだ出来事です。
しかし、もし、ここでイサクを犠牲として捧げ、イサクの命が取られて、そのことによって義と認められるのであれば「行い」が強調されるかもしれません。しかし、現実は違いました。イサクの命は取られませんでした。完全な行いではなかったのです。神もアブラハムも初志貫徹しませんでした。
また、神はアブラハムの完全な信仰を見て義と認められたのでもありません。不完全だったけれども、認めてくださいました。アブラハムは「あなたの子孫を天の星のように増やす」という約束を信じきることができず、女奴隷のハガルによって子どもを得ているのです。この行為は、神に対する裏切りです。神の約束を信じきることができず、裏切ってしまったのです。
さらに、この行為は神の約束を自分の力でなし遂げようとする傲慢です。神にはできないかもしれないから、代わりに自分がやってあげる。という思い上がった考えから出てきた行為です。自分を神とすることなのです。
【報酬か?】
4節からは報酬と恵みについて語られます。私たちの社会において働きには、必ず報酬が伴います。働いた者は報酬を受ける権利があり、働いてもらった者は報酬を支払う義務があるのです。
しかし、これを信仰という問いかけに当てはめることができるのでしょうか。私たちが神のために一所懸命、奉仕する、神に喜ばれる働きをする。そうすれば、それに対して、神には報酬を支払う義務が生じるのでしょうか。
もし、そうだとすれば、私たちと神との関係は労働者と雇用主の関係と同じになってしまうのではないでしょうか。そうなると大変なことが起こります。天国株式会社とか何とかがあって、神は社長で、私たちは社員として働くわけです。ある人は営業に回り、ある人は経理、商品を作る製造部門もあるかもしれません。そして、給料日になると働いた分の報酬をもらいます。働きが良ければいいのですが、働きが悪ければ報酬がもらえなくなります。病気か何かで長期欠勤が続くとどうなるでしょうか。働けなくなったら、お払い箱なのでしょうか。
もちろんこれは極端な話で、現代の企業体では、有給休暇もあるし、就業形態はもっといいかもしれませんが、報酬だと考えるならば、そこには何の救いもありません。
また、私たちが神のために犠牲を払うことによって、その報酬を受けると考えるならば、それも間違っています。先ほどのアブラハムがイサクを捧げた出来事を思い出してください。アブラハムはイサクという犠牲の上に義と認められたのではありません。
確かに神はアブラハムの信仰を試されましたが、犠牲を求めたのではありません。現に、モリヤの山ではイサクの代わりとなる雄羊を用意されていました。
神によって義と認められること、救いに与るということは、報酬ではなく、ただ一方的な恵みなのです。
【恵み】
6節以下で今度はダビデを引き合いにパウロは話を進めます。ダビデはユダヤ人にとって英雄的な存在です。人格的にも信仰的にも厚い信頼を得、尊敬されていました。しかし、そんなダビデも完璧な信仰者ではありませんでした。
サムエル記下の11章を見るとバトシェバをめぐる出来事が書かれています。一国の王がこのようなことをすれば、今では一大スキャンダルになると思います。ダビデはこのような人には知られたくない罪人としての一面を持っていました。だからこそ「行いによらず神から義と認められた人の幸い」をうたうことができたのです。
ダビデは預言者ナタンによって、自分の罪を指摘されました。その時、心の底から悔やみました。私たちも自分の罪深さを本当に知った時、深い暗闇に落とされてしまいます。自己嫌悪になり、自信を喪失し、自暴自棄になり、自分の存在を否定し、無価値な者と思い込みます。
しかし、私たちが無価値な者だということではありません。罪を犯すことによって、良心の呵責に苛まれて自己嫌悪になり、無価値な者と思ってしまうのです。罪によって、そう思い込まされてしまうのです。しかし、そこで一筋の光に出会うのです。それが神の恵みの光なのです。
7節に「不法が赦され」とあります。この「赦され」という言葉は「運んでいく」という意味を含んでいます。私の犯した罪が神の前から どこかに運ばれていってしまう。だからもう自分の所にはない。私のものではないと言うのです。「罪を覆い隠された」とは文字通り、覆われ、隠されるのです。
「あなたの罪はどこか」と聞かれても、持っていかれました。だからもうありません。ここにあるかもしれませんが隠されています。見えません。だから私は罪人ではありません。こう言ってよいというのです。
こんなに都合の良い話があるのかと思いますが、パウロはあると言うのです。そうでなければ、私たちは神の前に立つことができないのです。神の恵によってイエスが私の罪を運んでいって下さった。覆い隠してくださった。それを「その通りです。アーメン」と答え、信じること。信仰とは、それだけで良いのです。
讃 美 新生107 神の恵みはいと高し 献 金 頌 栄 新生671 ものみなたたえよ 祝 祷 後 奏