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「約束の実現」 ローマの信徒への手紙4章18~25節
宣教者:富田愛世牧師
【約束】
先週は「約束」というテーマから、このローマの手紙を見てきましたが、今日の箇所は、神がアブラハムとの間に交わされた約束が、そして、聖書を読んでいる私たちに対して、その約束が実現しているということを見ていきたいと思います。
アブラハムが神によって「義」と認められた信仰とはどういうものかというと18節を見るとわかるように「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」た信仰です。希望するすべもないとは、まったく望めない、不可能であると信じることのできる状態を表しています。そのような時にも、なおも望みを抱いて信じたと語ります。
私たちは生きていく時、様々なものを望みます。物質的なもの、精神的なもの、肉体的なもの、環境や時間、本当に様々なものを求め、望んでいるのです。そして、これらのものは、大きく分けると2種類に分けることが出来ます。それは、努力すればかなう可能性のあるものと、いくら努力をしたところで絶対にかなわないものです。
お金が欲しいとか、楽器の演奏が出来るようになりたい、また、英語が話せるようになりたい、といったものは、努力することによってかなうのではないかと思います。中には無理なものもあるかもしれませんが、努力によってある程度はかなうはずです。
それに対してどんなに努力をしても絶対にかなわないものもあります。私は背が低いので、中学校くらいから背が高くなりたいと思っていましたが、こればかりはどんなに努力しても伸びませんでした。というより、努力の仕様がなかったというほうが正しいかもしれません。また、肌の色が白いのも嫌でしょうがなかったのです。夏に日焼けをしても秋になれば元に戻ってしまいました。
このようなものはどんなに努力しても無理な望みです。肉体的な衰えというものも同じです。10代の時のように早く走りたいと願ってみても40才には40才の走り方とスピードがあるし、80才には80才の走り方とスピードがあるのです。無理すれば出来るというものではありません。無理も出来なくなるのです。
【信仰の弱さ】
19節を見るとアブラハムは「体が衰えており」サラも「子を宿せない」体になっていました。アブラハムが 100才、サラは90才でした。「体が衰えており」と訳されている言葉はヘブル語では死んでいる状態を表す言葉です。実際に死んでいるわけではありませんが、生殖能力がもう無くなってしまっていることを意味しているのです。
ですから、この時点でアブラハムもサラもいくら自分たちの力で努力をしたとしても、子どもが生まれないということは常識的に分かっていたことでした。しかし、そのような状態にありながら「その信仰は弱まりはしませんでした」とあるのです。
ここで注意しなければならないのは、信仰が弱まることはあるかもしれないが、無くなることはないということです。私たちは生活の中で、信仰が無くなってしまうように思えることがあります。自分から信仰を捨てると宣言する人もいます。
しかし、信仰とは弱まることはあっても、無くなることはありません。なぜなら、信仰というものは、私たちが自分の力で手に入れたり、努力や精進によって得るものではないからです。
もし、自分で手に入れたものなら、無くなってしまう可能性もあるでしょう。しかし、聖書によるならば、信仰とは神によって与えられるものなのです。一度与えた信仰を神が取り除くとは、私には考えられません。
また「弱くなることがあるかもしれませんが」と言いましたが、本当に弱くなるのかも疑問です。もちろん人間的な効率主義とか、能力主義という見方から見るならば、弱く見えることがあるでしょう。しかし、信仰の本質は、そのような秤によって計ることの出来るものではないはずです。
かえって、逆境の中にあって自分ではどうしようもない時、まったく不可能に思える時にこそ、強くされるのではないでしょうか。自分の力の限界を知った時、はじめて私たちは神に頼るようになります。そして、最後の頼みの綱として、神に賭けるしかないという状態に追い込まれていくのです。もう信じるしかないとなるのです。他にはもうなにも怖いものがないのですから、そのような信仰はとても強い力を発揮するはずです。
【約束の実現】
先週も言いましたが、神は誠実なお方です。ですから、必ずその約束を守られます。それに加えて、神には約束を実現させる力があります。
神を形容する言葉として「無から有を呼び出す神」と言うものがあります。創世記にある天地創造の業とは、まさにこの「無から」の創造でした。何も存在しない「無」と言う状態から何かを創造していくということは、私たち人間には出来ないことです。
若い人たちの間では、クリエイティブな仕事に人気があり、いろいろな分野にクリエーターと呼ばれる人がいます。しかし、そう言われている仕事も何もないところからの創造ではなく、必ず何かしらの素材があります。たくさんある素材を、その目的以外の使い方をしたり、関係のなさそうなものをつなぎ合わせたりして、新しいものを作り出していく、これが人間の限界です。しかし、神は本当に何もないところから何かを創り出すことのできるお方なのです。
また、カール・バルトという神学者は「不可能の可能性」ということを語っています。不可能を可能にする神です。クリスマスの出来事をみる時、マリアが聖霊によって身ごもり、イエスを産みました。処女であるマリアが子どもを産むなどということは不可能なことです。しかし、神はそれを可能にしました。アブラハムとサラの間にイサクが産まれたことも不可能が可能になった出来事です。
その他にも聖書の中には、死人が生き返ったり、水がワインになったり、不可能なことが可能になる出来事がたくさんあります。しかし、ここで注意しなければならないのは、不可能が可能になるということだけを信じることが信仰ではないということです。
そうではなく、ここには神の約束というものが先にあるのです。神との約束が第一となり、その約束を信じるときに、不可能が可能になるのです。
神との約束がなければ「夢は見つづければ必ず実現する」とか「何事も願い続けるならかなう」というヒューマニズム的な可能性思考になり、夢が破れ、願いがかなわず、挫折感だけを味わうことになってしまうのです。
【義とされた】
アブラハムは徹底して約束を信じたので、信仰によって義と認められました。しかし、この事実はアブラハムだけのことではありません。聖書はアブラハムを信仰者の父と定めました。それ故、ユダヤ人は律法を守り、アブラハムを父とすることによって、その信仰を継承し、守り通しました。
同じように、私たち現代に生きる信仰者にとってもアブラハムは信仰の父なのです。そして、その信仰の遺産を受け継ぐことが許されているのです。
アブラハムは約束によって「死人を生かす」神を信じました。さらに、私たちは、この約束が大きな拡がりを見せ、具体的に全人類に対して「死人を生かす」神が存在するという証拠を聖書のなかに見いだすのです。それがイエス・キリストの十字架と復活の出来事なのです。
私たちは、神の義の前に、まったく弁明できないほど罪深い存在です。罪人として滅びるばかり、滅ぼされて当然といえる私たちです。しかし、神は「もう滅ぼすことをしない」という約束を果たすため、赦しを与えてくださいました。
その赦しの代価として、ご自身のひとり子をこの世に送ってくださいました。罪の故に滅びるしかない人類の贖いとなって、身代わりとなって神のひとり子であるイエス・キリストは十字架にかかり、死んでくださいました。そして「死人を生かす」神が死の淵からイエスを復活させられたのです。ただイエスを信じさえすれば、神は私たちを義と認めてくださるのです。義と認めるということは、私たちの罪が赦されたということなのです。この恵みの業は条件なしで与えられているのです。
讃 美 新生496 命のもとなる 献 金 頌 栄 新生673 救い主 み子と 祝 祷 後 奏