前 奏
招 詞   詩編119編116節
讃 美   新生 13 ほめまつれ 主なる神
開会の祈り
讃 美   新生281 み座にいます小羊をば
主の祈り
讃 美   新生230 丘の上に立てる十字架
聖 書   ローマの信徒への手紙5章1~5節
               (新共同訳聖書 新約P279)

「苦しい時にこそ」                ローマの信徒への手紙5章1~5節

宣教者:富田愛世牧師

【神との平和】

 パウロは4章までで「神の義」ということと「神の怒り」ということを中心に語ってきましたが、5章では新しい展開に入ります。それは「神の怒りからの解放」ということです。4章25節で「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」とあります。

イエスの十字架以前の私たちは、完全に罪の中にありました。罪の本質というのは、神との間の平和が崩れているということです。神との間に平和がないということは、極端な言い方にすれば敵対関係にあるということです。

私たちの中には「神と敵対関係にある」なんて言われてもピンと来ない方がいると思います。また「神と敵対していない」と言われる方もいると思います。

しかし、聖書は神に従わないことによって、神の敵となっていたのだと語っているのです。積極的に反抗するだけでなく、神を拒むことが罪であって、罪人は神と敵対関係にあるのだと語るのです。

ちょっと厳しすぎると思うかもしれませんが、事実なのです。そして、人は神の敵となりましたが、神は人の敵にはなりませんでした。神は人を敵としたのではなく、怒りを現されたのです。

10節を見ると「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」とあります。敵であったときでも神は私たちに和解のチャンスを与えてくださっていたのです。キリストの和解の働きによって、神との関係が正しいものとされたのです。

イエスの十字架が神の怒りを取り除いてくださったのです。ここに神との平和というものが明らかにされたのです。私たちがイエスに従い、キリストにおいて生きるということは、神の怒りから解放されたということなのです。

【栄光にあずかる希望】

パウロは2節で「今の恵み」と語ります。今、パウロはとてつもない恵みの中に自分はいるのだと語ります。パウロがこのように語るのには、その背景が深く関係しています。

以前のパウロはフィリピの信徒への手紙の3章5~6節にあるように律法を厳守する事を誇りにしていました。ちょっと読んでみます「わたしは産まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者律法の義については非のうちどころのない者でした」とあるのです。しかし、ダマスコに行く途中で復活のキリストに出会い、パウロの目は開かれました。

たぶんパウロ自身が絶対的な確信というものを持っていなかったのではないかと思います。律法を守り、行うことによって「義」とされると信じ、行っていましたが、どこかに不安を抱えていたのではないかと思うのです。そんなパウロがイエスの弟子たちにいろいろな場面で出会っていたのではないかと思います。

そして、ステパノの殉教の場面にも出くわしているのです。その弟子たちの確信に満ちた姿を見た時、何かを感じたはずです。しかし、それを素直に認めれば、ユダヤ人としてのアイデンティティーや今まで自分が積み上げてきた宗教的な功徳が崩れ去ってしまうことが分かっていたのです。だから、ヒステリックなまでに、教会を迫害するようになったのではないかと思います。

そんな経験を通ったからこそ、キリストを信じる信仰によって、不安定な希望ではなく、確信を得たのです。そして、この希望がパウロにとって揺るがない誇りであり、恵みとなったのです。

【苦難を誇る】

パウロの得た、この誇りは、順境の中だけでなく、逆境の中にあっても自分を支えてくれるものだと語ります。苦難に会う時、私たちはそこから抜け出すことが出来るのだろうかと不安になります。

苦しみ自体、歓迎できるものではありませんが、それが、いつかは無くなるということが分かっていれば、耐えることもできるはずです。しかし、本当にその苦しみがなくなるかどうか分からないから、不安になるのです。

子どものころ、皆さんも歌ったことがあると思いますが「汽車ポッポ」という動揺があります。あの歌の歌詞で「トンネルだ、トンネルだ、楽しいな」という一節があります。子どもがトンネルの中に入って、真っ暗な中にいることが、本当に楽しいのかなと、私は疑ってしまうのです。

子どもにとって、いや、子どもに限らず、人間にとって暗闇というものは、決して楽しいところではなく、不安で一杯になるところであるはずです。だからこそ、子どもがトンネルの中でも不安にならないように「楽しいな」という歌詞がつけられたのだと思いますが、トンネルに入って真っ暗闇になったとしても、必ず出口があって、そこを出ればトンネルに入る前と同じ明るい所に戻れると分かっているから平気でいられるのです。

苦しみというものも同じだと思います。聖書は神が与える苦難には必ず出口があると語るのです。そこに大きな希望があるのです。また、苦難に会わなければ、分からないこともたくさんあります。自分自身が苦しみに会わなければ、他者の苦しみを理解することができないような愚かな存在でもあります。

それだけではありません。苦難は忍耐を生むというのです。忍耐するということは人間にとって大切なことです。勉強も仕事も忍耐がなければ、習得することができません。そして、この忍耐が練達を生み出すと語ります。練達とは一つのことを究めていって、その専門家となることです。この一連の流れはその通りだと、誰もがうなずけることです。この練達が希望を生み出すとあります。

信仰において、練達した者は神への希望を持つことが出来ます。そのためには与えられた苦難を誇らなければならないのです。人間的に誰かに自慢できるものを誇るのではなく、神によって成長する機会が与えられていることを感謝し、そのことを誇ることが出来るというのは幸いなことです。

【真実の希望】

練達した信仰者が持つ希望は「私たちを欺くことがありません」と聖書は語ります。私たちの周りには、何の根拠もない、口先だけの希望というものがたくさんあります。

多くの雑誌には必ずのっているといわれる「占い」もそうです。何の根拠もないのに希望を語っています。読む人も、それぞれで本気で信じる人は少ないようですが、希望の持てるような事が書いてあると一応は期待するみたいです。

ヒューマニズムもそうです。「人間やれば出来る。出来ないことは何もない」などと言ってけしかけ、希望を与えてくれますが、実際には出来ないこともたくさんあるのです。自分に自信があって「勝ち組」「成功者」の時はそれでいいかもしれません。元気一杯、自分の可能性に賭けてみたいと思っている時は、それでいいかも知れません。上手く行けば、とりあえずはいいですが、上手くいかなかった時は、どうすればいいのでしょう。こんな根拠のない、責任もない希望は百害あって一利なしだと、私は思います。

しかし、神との間に平和が築かれるなら、神は私たちの味方になってくださいます。これほど力強い味方は他にはありません。神の力、それは「愛」の力です。

神は聖霊によって、私たちの心に愛を注いでくれると聖書は語ります。私たちがいくら愛を持ちたいと願っても、人間の愛には限界があります。イエスがペトロに「私を愛するか」と尋ねた時、イエスは「アガペー」つまり、見返りを期待しない、無条件の愛を求めました。しかし、ペトロは「フィレオー」の愛で答えました。

人間は無条件の愛で答えることが出来ず、条件付きの愛でしか答えることが出来ないのです。そんな私たちに、神は無条件の愛を持って、愛して下さるのです。

讃 美   新生541 主は招きたもう
献 金   
頌 栄   新生673 救い主 み子と
祝 祷  
後 奏