前 奏
招 詞   ホセア書11章1節
讃 美   新生 13 ほめまつれ 主なる神
開会の祈り
讃 美   新生176 主は豊かであったのに
主の祈り
讃 美   新生226 罪なくきよき
聖 書   ローマの信徒への手紙5章6~11節
                     (新共同訳聖書 新約P279)

「愛を示された」                 ローマの信徒への手紙5章6~11節

宣教者:富田愛世牧師

【弱かったころ】

 先週も話しましたように、5章からは新しい展開に入り「神の怒りからの解放」ということが大きなテーマとなります。1節では「信仰によって義とされ」たことが語られます。信仰によって義とされるということは、そこに神の愛が示されたということです。

それでは、私たちは誰に対して、どんな時に、愛を示すでしょうか。ただ、ここで用いる「愛」は神が示される愛とは次元が違うということを頭に入れておかなければなりません。神の愛を理解するために、まずは私たちが持ち得る愛について考えていこうと思うのです。

 誰に対して愛を示すかというと、好きな人、愛する人だけだと思います。時々、愛と同情の区別が付かなくて、同情を愛だと勘違いする人がいます。可哀相な人や困っている人に対して抱く感情の多くは同情だと思います。私たちは自分が愛したいと思った相手や自分を愛してくれる相手に対して、愛を示しています。嫌いな人や敵に対して、愛を示す人はほとんどいないと思います。

 そして、どんな時に愛を示すのかと考えましたが「気分しだい」としか答えようがない感じがします。悲しい時でも、嬉しい時でも、悩んでいる時でも、また、怒りを表している時でさえも、愛を示すことがあるのではないかと思います。

 このように私たちの持っている愛とは自分勝手で気まぐれな感情なのではないでしょうか。

 6節を見ると神がどんな時に誰に対して愛を示されたかが書かれています。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」とあります。「わたしたちがまだ弱かった頃」とはいつでしょう。それは助けてくださる方を知らなかった頃をさしています。

つまり「キリストをまだ知らなかった頃」ということです。「頃」という言葉は、漠然とした時の概念ですが、次の「定められた時」という言葉によって、ハッキリとその時が確定されます。イエスの十字架の出来事は、たまたまイエスが33才の過ぎ越しの祭りの時に起こった出来事ではありません。キリストの十字架の死は偶然の出来事ではなく、神が定めた時の出来事だということを強調しています。そして「不信心な者のために死んでくださった」とあります。神を信じない者のために、イエスが死なれたと言うのです。

先ほど、私たちは嫌いな人や敵に対しては愛を示すことがないと言いましたが、神はご自分を信じない人、つまり、敵対する相手に対して愛を示されているのです。

【罪人のため】

7節を読んでみましょう。「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません」とあります。

この「正しい人」とは、律法的な正しさを持っている人のことを表しています。つまり、自分自身の正しさを主張する人です。「確かにあの人は正しい人だけれども…」というタイプの人のために自分の命を差し出す人はいないだろうということです。

「善い人」とは、自分の正しさを主張するのではなく、他人に対して善い人のことです。自分にとって恩人となってくれる人のことです。そんな人のためには命を投げ出す人がいるかもしれません。

パウロは、人間の愛が犠牲的な行動をともなうことがあるということを否定はしません。しかし、ここで語られていることはそんなことではないのです。

8節を読むと「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」とあります。大切なことは、神の愛は、恩人のために命を投げ出すのではなく「罪人のため」に命を投げ出すことも出来るのだということです。

これこそがキリスト信仰の中心なのです。神の愛を知るということは、キリストの十字架、キリストの死を知るということなのです。キリストの死は私たちが「まだ弱かった時」に起こっています。この「弱さ」とは生まれながらの人間の弱さ、痛み、衰え、無力さを示しています。

そんな者のために死んでくださるのです。人間的な価値観をもって測るなら、無価値な者に対して示されたのが神の愛であるとパウロは語っているのです。

キリストが死なれたのは、善人のためではなく、罪人のためだったのです。友のためではなく、敵対している者のためだったのです。

【キリストによって】

9~10節を見てみましょう。「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」とあります。

この9節と10節は両方とも同じようなことを語っていますが、パウロは10節において、神が人間に対して示された愛について、もう一歩、踏み込んだ話をします。

9節の「今や」と言うのは「キリストの血によって義とされた」状態をさしています。神は私たちが罪人であった時に、その愛を示され、義としてくださいました。罪人であった時というのは、神に敵対していた時のことです。10節では、ハッキリと「敵であったときでさえ」と語っています。そんな時に「御子の死によって神と和解させていただいた」のです。

神に敵対する者、罪人であった時でさえ、神の側から歩み寄ってくださり、赦しを与えてくださったのだから、9節では、義とされた今は「神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」と語ります。

10節では「御子の命によって救われるのはなおさらです」と語っています。ここに重要な言葉が出てきています。10節の前半では「御子の死」という言葉があり、後半では「御子の命」という言葉があります。御子の死というのは十字架の出来事です。御子の死によって和解させていただいた。つまり、キリストの命と引き換えに、私たちの罪は赦され、義とされたのです。しかし、神の愛はそれだけでは終わらなかったのです。キリストを復活させることによって、その命にあずかるようにしてくださったのです。「御子の命によって救われる」とはキリストと共に永遠に神の国に住むことが出来るようになったということです。

キリスト信仰というものは、この世の出来事だけでなく、終末の出来事にもおよんでいるということを語っているのです。終末思想というものは、そう簡単に理解することの出来るものではないかもしれません。しかし、この世には必ず終わりの時がやって来るということを覚えておかなければなりません。もちろん、それが私たちが生きている内に起こるのか、それとも死んでからの事になるのかは誰にも分かりません。しかし、そのための備えを「今」しなければ、後回しには出来ないのです。

【神を誇る】

11節を読んでみましょう「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」とあります。

「それだけでなく」とは、今までパウロが述べてきた事、全体をさしています。キリストの死は、私たちの不義を赦し、全ての敵対関係を取り除いてくれました。このあがないの出来事に対する、私たちの応答も必要になってくるのです。

私たちの応答とは何でしょうか。それは「神を誇りと」することです。この「誇り」という言葉は、他では「喜ぶ」と訳されることもある言葉です。パウロは律法的なもの、民族的な選民意識、それらをキリストに出会う前は「誇り」としていました。この「誇り」には行動や行為がつきものです。

しかし、キリストに出会ったことによって、それらを「塵あくたと見なしています」とフィリピの手紙3章8節で告白しています。神に対する「応答」というとき、私たちは何かをしなければならないように思います。しかし、神が求められるのは、自分をムチ打ったり、犠牲的な行動や行為ではありません。

そのような思いは、これ以上に神から報酬を受けようとする貪欲な、高ぶった思いです。自分が主となって、神を言うとおりにコントロールしようとする思いが入り込んでいるのです。神の救いのわざに満足していないということの告白なのです。

私たちのすべきことは、神を誇ることであり、喜ぶことなのです。どこで、どうやって、誇り、喜ぶのでしょうか。一つにはキリストの体として与えられている教会において礼拝することです。心から賛美し、献げることです。また、それぞれの生活において、祈り、聖書を読むことであり、すべてを感謝していくことです。

讃 美   新生374 主は救いたもう
献 金   
頌 栄   新生673 救い主 み子と
祝 祷  
後 奏