前 奏
招 詞   創世記3章8~9節
讃 美   新生  5 ほめまつれ 主なる神
開会の祈り
讃 美   新生222 罪なきその身に
主の祈り
讃 美   新生418 主のことばにより
聖 書   ローマの信徒への手紙5章12~14節
                     (新共同訳聖書 新約P280)

「罪の根」                     ローマの信徒への手紙5章12~14節

宣教者:富田愛世牧師

【このようなわけで】

 5章に入ってから、新しい展開が始まったと言いましたが、12節からは、今までの口調と、少し変わった口調で語られます。11節までは「わたしたちの主イエス」とか「わたしたちの神」という言い方をしていましたが、12節からは第三者的になって「一人の人」とか「一人によって」という言い方に変わっています。

また、全体の流れからみると1章18節~3章20節までは人間の罪深さを語り、3章21節~5章11節では神の救いの恵みが語られています。ところが今日の箇所は、また、元に戻って罪について、人間の罪深さについて語っているのです。

しかし、ここにパウロの意図があります。元に戻って問いなおすことは神の恵みの大きさを知るために必要なことなのです。罪についてしっかりと理解しなければ、罪から救われた事実が、どれほど大きなものかが分からなくなってしまうのです。また、そのために視点を変え、客観的に見ていこうとしたようなのです。

 新共同訳聖書では12節から21節までが一括りとなっていて「アダムとキリスト」という小見出しがついています。アダムによって罪が入り込み、キリストによってその罪が赦されたという大きなテーマを語っているので、今回は少し詳しく4回に分けて読んでいきたいと考えています。

さて12節は「このようなわけで」という言葉で始まっています。このようなわけとは3章21節から5章11節までに語られてきたことで、5章1節を見ると「このように」という言葉が記されています。つまり、4章25節までのことが前提になっています。そして、3章27節、4章1節、9節はそれぞれ「では」という言葉で始まります。これらも前の節を前提にした言い回しになっています。

このように3章21節からのことはみんな繋がっていて、簡単に言うならば、イエスが罪人である私たちのために死んでくださったこと、それによって神の愛が示されたこと、そして、神の栄光に与かり、希望が与えられたこと、この希望とは忍耐することによって生み出される練達を土台とした希望であるということ、このような希望だからこそ、苦難の中にあっても希望を持つことができるのだということを指しているのです。

【一人の人】

次の言葉は「一人の人によって罪が世に入り」とあります。ここで語られる「一人の人」とはアダムのことを指しています。アダムの犯した罪によって人類に罪が入り込んだ。罪の根はアダムの罪であるとパウロは語るのです。

今日の礼拝への招きの言葉は創世記3章8~9節でした。創世記3章には最初の人アダムとエバがエデンの園と呼ばれる楽園で過ごしていた時のことが書かれています。

そこには沢山の木があり、人は好きなだけその実を食べてよかったのです。つまり神の豊かな恵みの中で、何の苦労もなく生きられたのです。ただし、一つだけ約束がありました。それは、園の中央にある「善悪の知識の木」からだけは、その実を食べてはいけないということでした。ところが蛇の誘惑によって、神との約束を破り、その実を食べてしまったのです。

そのことを神に咎められた時、アダムもエバも、約束を破ったという事実を認めるのではなく、その責任を他人になすりつけてしまったのです。この神に対する不従順、そして、自分は悪くない、あいつのせいだと責任転嫁することが彼らの罪となったのです。この罪の故にエデンの園から追放され、汗を流して食べ物を得なければならなくなったのです。

このアダムの罪によって罪が世に入り、私たちすべての人は罪を持つようになったとパウロは語るのです。アダムの犯した罪が、罪の根として人類に入り込んだのだと語るのです。

しかし、アダムが罪を犯したからと言って、今、聖書を読んでいる私たちとアダムにどんな関係があるのかと疑問に感じる人がいると思います。もっともな疑問だと思います。私とアダムには何の関係もないと考えるのが普通かもしれません。

ただ、ここで問題となっているのは、あなたとアダムに関係があるかないかではなく、罪があるかないかということなのです。あなたは罪をもっていますかということなのです。そして、アダムの罪が全人類に及ぶということに納得がいかなかったとしても、この論法が大切なので、今は納得できなくても、そのことを覚えていてほしいと思います。

【すべて罪人】

聖書は続けて「罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」と記しています。すべての人が永遠に生きるのではなく、いつかは死んでしまいます。死んでしまうということは、この聖書が語るように「罪によって死が入り込んだ」のですから、その次に書かれているように「すべての人が罪を犯したからです」となるのです。

しかし、一つパウロ自身がこのように語りながら、論理的におかしいと思う点があったようです。それは「律法によらなければ罪を知らなかった」ということです。

聖書に出てくる言葉としては7章7節に書かれている言葉ですが、実際には1章18節以降で繰り返し語られていることであり、律法を知っていようが、知るまいが、人は罪を犯しているということが語られています。

そして、5章13節には「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです」とあるのです。人は罪を犯しますが、律法がなければ、その犯した罪が罪とは認められなかったというのです。認められなかったとするならば、その罪は罪ではないのでしょうか。そんなことはありません。認められようが、認められまいが、罪は罪なのです。

ですから、次の14節の前半にあるように「しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました」と書かれているのです。

自分が罪を犯しているという自覚のない者も、また、アダムのような罪を犯した者でなかったとしても、すべての人の上に死が訪れているのです。死ぬということによって罪があるということが証明されてしまうのです。

【来るべき人】

そして14節の終わりには「実にアダムは来るべき方を前もって表す者だったのです」と締めくくられています。

先ほど「アダムの罪が全人類に及んでいる」ということに納得がいかなくても、その論法だけは覚えておいてくださいと言いましたが、ここにその理由があるのです。

アダムの罪がすべての人に及んだように、来るべき人の行為がすべての人のためのものとなるということを前もって語ったということなのです。この「来るべき方」はイエスを指しているのです。

つまり、それがイエスの十字架の出来事なのです。神はその愛と憐れみによって人類を救いたいと願いましたが、罪を犯したという事実を曖昧にすることはできませんでした。なぜなら神は愛のお方であると同時に「義の神」でもあるからです。

神の義、神の義さによるならば、罪の支払う報酬は死なのです。同じローマの信徒への手紙6章23節に「罪の支払う報酬は死です」とあるのです。そして続いて「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」とあります。

神はその義を表すために、ご自身のひとり子であるイエスを全人類の贖いとして十字架にかけ死に渡されました。その死によって全人類の罪は贖われたのです。しかし、それで終わったのではなく、イエスは死んで三日目に復活したと聖書は証言しているのです。人類の究極的な敵として、不安や恐れの根源としての死を打ち破られたのです。

この十字架と復活の出来事も、アダムの罪と同じように「一人の人」の行為によって全人類に及ぶ出来事になったということなのです。

イエスなんて、今から2千年も前の人で、私には関係ないと考える人が多いかもしれません。しかし、ここでパウロはアダムによって罪が入り込んだように、イエスによって救いの業が全ての人に及んでいると語るのです。

そして、このイエスを「私の罪の身代わりとなって十字架で死なれた」と信じることによって、私たちの罪は赦され、神と共に平安の道を歩むことができるのです。

讃 美   新生470 この世の楽しみ
主の晩餐
献 金   
頌 栄   新生673 救い主 み子と
祝 祷  
後 奏