前 奏
招 詞   詩編22編28節
讃 美   新生  5 神の子たちよ 主に帰せよ
開会の祈り
讃 美   新生240 救いの主はハレルヤ
主の祈り
讃 美   新生249 み神はこの日を作りたもう
聖 書   ルカによる福音書24章1~12節
                (新共同訳聖書 新約P158)

「たわ言」                    ルカによる福音書24章1~12節

宣教者:富田愛世牧師

【イエスの埋葬】

 イースターおめでとうございます。今日はイースター、イエス・キリストの復活をお祝いするキリスト教会における喜びの日です。コロナ危機と呼ばれる時代にありながら、こうして皆さまと共にこの日をお祝いすることができるというのは、当たり前のことではなく、本当に幸いな出来事だと思わされます。

 

 さて、イエスの復活の出来事を見ていく前に、十字架の出来事をもう一度振り返りながら見ていきたいと思います。

今日は読みませんでしたが23章44節以降でイエスの十字架上での死について記録され50節以降で墓に葬られた時の出来事が記録されています。

しかし、ユダヤ社会においては十字架刑に限らず、刑罰によって死んだ人の遺体は葬られるのではなく、ゲヘナと呼ばれるヒンノムの谷に捨てられることになっていたということです。

現代とは違って、人権意識というものがかなり乏しい時代だったのだと思わされます。人権意識の乏しさから、悪事を働いた者には相応以上の罰を与えることによって、悪事に対する抑止力としたように思えます。それこそ見せしめにしたのではないでしょうか。

しかし、そんなことで悪事を行う人が減るのかは、はなはだ疑問だと思います。本当は、悪事を行うことに対して罰を与えるということ自体、考え直さなければならないと思うのです。イエスの十字架とは直接関係ないかもしれませんが、一つの問いかけとして覚えておく必要はあると思っています。

イエスの十字架の出来事を見ていく時、それは祭司や律法学者たちによって綿密な計画の下で進められた事柄だったとは思えません。ユダヤ人にとって大切な過ぎ越しの祭りの直前に裁判を行い、十字架刑を執行するということは、少し無理があるように感じるのです。

特に祭りの時には恩赦があったわけですから、イエスの刑が確定したとしても、恩赦によって釈放される可能性があったはずです。祭司や律法学者たちには焦りがあって、ことを早く済ませたかったのだと思います。ですから死んだ後の葬りについては、もうどうでもいいことだったのかもしれません。

【週の初めの日】

イエスの遺体はヨセフによって墓に葬られました。本来ならば、ゲヘナに捨てられなければならなかったはずですが、ヨセフの提案が受け入れられたようなのです。その理由は聖書に書かれていませんが、イエスを慕う人たちの思いがそこに表されていると思われます。

ヨセフによって引き取られたイエスの遺体は、ヨセフが用意していた墓に収められることになりましたが、十分な埋葬の支度をすることができませんでした。

なぜなら、次の日は安息日だったからです。死者を葬る際に行われる一連の支度がなされず、とりあえず墓に収めることしかできなかったようなのです。

イエスの遺体は墓に収められ、夕方になり安息日になったので、その日は誰も、何もできませんでした。

そして、週が明けた日の朝早く、女性の弟子たちは本来すべきだった埋葬を仕切り直そうと墓へ急いだのです。ルカによる福音書には書かれていませんが、墓へ行く女性の弟子たちにはいくつかの不安があったようです。そのうちの一つが墓の入り口をふさいでいる大きな石をどうやって動かすかでした。

この時、男性の弟子たちも誰の家かは分かりませんが、誰かの家に集まっていたようです。しかし、彼らはイエスの遺体を埋葬し直そうとは思わなかったようです。たぶん、落ち込み、放心状態になっていたのではないかと思います。

何もできず、情けない男性の弟子たちに比べ、女性の弟子たちは現実をしっかりと見て、今すべきことに向かって、前に向かって歩んでいたように思えます。

イエスが収められている墓に着くと驚くべきことが起こっていました。どうやって動かそうかと彼女たちを悩ましていた石がわきに転がしてあったのです。

彼女たちは恐る恐る墓の中をのぞきました。するとそこにあるはずのイエスの遺体がなかったのです。

【輝く衣を着た人】

3節からもう一度読んでみます。

「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」とあります。

  石がわきに転がしてあり、中をのぞくとイエスの遺体が見当たらず、中に入って探したけれど、見当たらなかったのです。彼女たちは途方に暮れました。きっと膝からくずおれてしまったのだろうと思います。すると、そこに輝く衣を着た二人の人が現れたのです。このあたりの表現の仕方が四つの福音書では、それぞれ少しずつ違っています。マタイによる福音書では女性の弟子たちが墓に着くと大きな地震が起こり天使が下りてきて石を転がし、稲妻のように輝き石の上に座ったとあります。マルコによる福音書は墓の中に入ると白い衣を着た若者が座っていました。ヨハネによる福音書は墓の入り口の石が取りのけてあるのを見てペトロたちを呼びに行っています。

どれが正しいということではなく、それぞれに何かを強調しようとしているのだと思います。ルカによる福音書では途方に暮れ、顔を伏せていると二人の天使が現れ、彼女たちに「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と語るのです。

そして、イエスの言葉を思い出しなさいと促すのです。それも「ガリラヤにおられたころ」と限定して思い出させているのです。

ガリラヤにいた頃のイエスの姿というのは、弟子たちだけでなく、そこに生きている多種多様な人々と、何の分け隔てもなく生活し、生き生きと福音を語られる姿ではないかと思うのです。

彼女たちは天使の促しによって「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」という言葉を思い出したと思いますが、それ以上に大切なことを思い出したはずです。

イエスの言葉とは福音書に記録されているものだけではありません。つまり、音として発せられる言葉だけではありません。イエスの言葉とは、イエスの存在そのものを意味しているのです。

【たわ言】

イエスの言葉を思い出した女性の弟子たちは、男性の弟子たちの所へ帰り、墓での出来事を報告します。しかし、彼らにとって女性の弟子たちの言葉は「たわ言」にしか聞こえませんでした。彼らは彼女たちの言葉を信じることができなかったのです。

しかし、この信じることのできなかった、愚かな男性の弟子たちが、のちに使徒と呼ばれるようになるのですから、神の為せる業というものは本当に不思議なものだと思います。

女性の弟子たちが、空の墓の中で見聞きしたことは男性の弟子たちにとって「たわ言」でした。なぜなのでしょうか。男性の弟子たちは女性の弟子たちの言葉を聞いただけで、イエスの言葉を思い出さなかったからです。

神が私たちに求めておられるのは、イエスの言葉を思い出しなさいということなのです。イエスの言葉、それは先ほど言いましたように、発せられる音としての言葉だけではありません。

イエスの存在そのものなのです。イエスが生まれ、成長し、人々と同じように生活したガリラヤ。そこには様々な力によって抑圧されながらも懸命に生きる人々がいました。社会の底辺に追いやられていたけれど、その日一日を精一杯に生きる人々がいたのです。

その中にイエスもいたのです。共に喜び、共に苦しみ、共に笑い、共に涙し、時には共に怒りを表していたのです。そのようなイエスの言葉には、人々の悩み、苦しみ、喜びが染みついているのです。

イエスの言葉が全てを解決するわけではありません。イエスの言葉によって喜びが溢れるわけでもありません。しかし、そこには慰めがあるのです。イエスが共にいてくださることによって励まされるのです。そして、希望を見ることができるのです。

讃 美   新生241 この日主イエスは復活された
献 金   
頌 栄   新生673 救い主 み子と
祝 祷  
後 奏