前 奏
招 詞   申命記7章9節
讃 美   新生  5 神の子たちよ 主に帰せよ
開会の祈り
讃 美   新生252 喜べ 主を
主の祈り
讃 美   新生300 罪ゆるされしこの身をば
聖 書   ローマの信徒への手紙5章15~17節
                     (新共同訳聖書 新約P280)

「恵みの賜物」                  ローマの信徒への手紙5章15~17節

宣教者:富田愛世牧師

【罪と恵み】

 受難週とイースターが入りローマの信徒への手紙が2回抜けたので、初めの少しだけ振り返ってみたいと思います。前回の12~14節で、パウロは罪の根の深さ、そして罪によって死が入り込んだことを語りました。私たち人間にとって罪とは途方もなく大きな敵です。うわべでは罪を取り除いたような気になっていても、その根っこは残っているのです。

根っこが残っていれば、罪はどんどん増えていくのです。そしてその罪の結果としての死も人生最大の敵であると思います。この死という敵に対して打ち勝つことは、私たち人間の誰にもできません。医学の進歩によって人類の寿命というものは、この百年の間に飛躍的に伸びたと言われています。これからもどんどん伸びていくと思われています。

しかし、病気を治療したり、老いの問題を克服しようとしても、最終的に「死」を克服することはできないのです。罪と死を前にして私たちはまったく無力な存在で、手も足もでません。これが私たち人間の現実であり、限界なのです。

 

ところが、パウロはこの15節で「しかし」と神の恵みを語りはじめるのです。死に対して神の恵みは絶対的な力を発揮し、死を打ち破るのです。神の恵みというものは絶対的なものなのですが、私たち人間に絶対的なものを理解するのは困難なことです。なぜなら、私たちは相対的なものの考え方しか出来ないからです。

絶対という言葉を使うことがありますが、自分がそう思い込んでいるだけで、真実はそうではないということが多いのです。例えば、太陽光線のなかで、つまり、自然の中であるものを見たとき、赤い色だったとします。トマトでも花でも何でもいいです。それが絶対に赤い色をしているでしょうか。紫外線や赤外線に照らすと違う色に見えるかもしれません。ということは「太陽光線の中で見たとき」という条件が必要になるのです。

このように私たちは、自分が絶対と考えていても、究極的には絶対ではないのです。絶対を理解できないので、パウロは神の恵みの大きさと他のものを比べることによって、その絶大さを伝えようとしています。

 

【豊かに注がれる恵み】

パウロは、この神の恵みの賜物は、罪とは比較にならないと語ります。対比させているけれども、比べものにならない、比べようがないと言うのです。すこし分かりにくい表現ですが、私たちは、罪に対する神の恵みを考えるとき、同列に並べようとしますが、パウロは罪と神の恵みは同列に並ぶものではないと主張するのです。

 アダムの罪によって、人は死ぬべき存在となりました。それは12節にあるようにアダムの罪によって死が入り込んだからです。死が入り込んだのと同じように、神の恵みもキリストによって入り込んだのでしょうか。

そうではありません。私は入り込むというと、何か隙間を見つけて無理やり入ってくるというイメージを持ちますが、皆さんはどうでしょう。死というものは、そのように無理やり私たちのなかに入り込んだのです。罪という隙間を見つけて、それこそ「スキを見つけて付け込む」という言葉があります。詐欺師とか人をだます人は、人のスキを見つけ、その人のスキに付け込むわけです。

死もそのように入り込んだのです。それに対して、パウロは15節の後半にあるように、恵みの賜物はキリストによって「豊かに注がれる」と語ります。この「豊かに注がれる」という言葉は「満ち溢れる」とか「あり余る」というようにも訳される言葉です。

つまり、罪の結果としての死とは「入り込んでくる」ものだから、それを防ぐことも可能だし、入り込んだものを追い出すこともできるのです。しかし、神の恵みとイエス・キリストの恵みの賜物は、入り込んだのではなく、豊かに注がれて、満ち溢れるもの、あり余るものなのです。

罪の力が一生懸命に汲み出しても、あり余るほど、溢れてくるものだというのです。無理やり入ってくるのではなく、豊かに注がれるのです。

 神の恵みとは、残ったらどうしようとか、余ったらもったいないとか、こぼれたらどうしよう、などと考えて与えられるものではないのです。おおらかに注がれるのです。そして、私たちの内に満ち溢れ、あり余るほどのものなのです。だから、罪とは比べものにならないのです。

【裁きと恵み】

次に16節でも、比べものにならないものだということを繰り返しています。それは、罪に対する裁きと罪を赦す恵みの働きについてです。ここには神の基本的な姿勢が語られています。

神は人間に裁きを与えることを望んでいるのではなく、恵みによる無罪判決、つまり、義と認めることを望んでいるということです。

多くの方は、テレビドラマや映画などで裁判のシーンを見たことがあると思います。裁判では、検事と弁護人がお互いの主張をしますが、その目の付け所が全く違っています。

検事は被告人を罪に定めるため、どんな小さな欠点も見逃さないようにして、あらゆる事柄を否定的にとらえます。反対に弁護人は被告人の無罪を示す証拠を探します。実際に犯罪を犯した人であったなら、犯罪を犯すに至った背景から、その必然性を主張して情状酌量を求めます。

人を裁くための裁判では、このように検事と弁護人の論戦がはられます。そして、最終的には一つの罪が実証されれば、有罪判決が下されるのです。

しかし、神は裁くためではなく、恵みによって人を義と認めるために働かれるのです。裁きの結果は罪に定めることであり、恵みの結果は義とすることです。

神の目的は始めに言ったように、罪に定めることではありません。そのために、今度は一人の罪過と多くの人の罪過を比べます。恵みの賜物と言うものは「罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません」と語ります。

アダムの罪によって死が入り込んできましたが、恵みの賜物はその死とは比べものにならないものだと言うのです。多くの罪があったとしても、恵みによって義と認めようとする場合、そこには無罪判決が言い渡されるのだと語るのです。

あまりにも都合の良すぎる話だと思われるかもしれませんが、この都合のよい話が恵みの賜物の働きなのです。私たちのなかには、これに対して意義を唱えることの出来る者は一人もいないのです。

【支配】

17節を読むとここには「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになった」と書かれています。一人の人の罪、つまり、アダムの罪によって死が支配するようになったのです。12節からずっとパウロはアダムの罪によって死が入り込み、死が人類を支配していると語っています。

今日の15節からはパウロはいろいろなものを対比させて語っています。死の支配に対比させるものは何でしょうか。死に対するものは「いのち」です。

そして、ここでは「神の恵みと義の賜物を受けている人は」と書かれています。「神の恵みと義の賜物を受けている人はイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです」と語ります。

アダムによって罪と死が支配する世界に生きていた私たちですが、神はキリストによって恵みと義の賜物を与えてくださいました。神の恵みと義の賜物を受けた時には、イエス・キリストと共に、死の支配に立ち向かうことが出来るだけでなく、支配するようになるのです。

これは私たちの力ではなく、神の恵みと義の賜物を受けた者に与えられる力なのです。この力は豊かに注がれ、溢れるばかりに、あり余るほどに与えられるのです。

私たちはただの人間なのに罪を、そして死を支配することができるのだろうか。と思われるかもしれません。神なら、神の独り子である、イエスなら出来るかもしれないけど、私には無理と思われるかもしれません。しかし、イエスは神の子であるけれども一人の人としてこの世に生まれてくださいました。15節に「神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物」と書かれています。

パウロはイエス・キリストを一人の人と書いています。私たちとは次元の違う存在ではなく、同じ人として罪と死を支配してくださったのです。だから私たちも恵みの賜物によって、同じように罪と死を支配することが赦されるのです。

恵みの賜物とは、このように罪と死から私たちを解放するだけでなく、罪と死を支配させるほど大きなものなのです。

讃 美   新生563 すべての恵みの
献 金   
頌 栄   新生673 救い主 み子と
祝 祷  
後 奏