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「イエスの従順」 ローマの信徒への手紙5章18~19節
宣教者:富田愛世牧師
【罪の赦し】
15節からパウロは「神の恵み」について語りはじめました。そして、この18節では「そこで」と言って12節の事柄、つまり、一人の人、アダムによって罪が入り、罪によって死が入り込んだことをもう一度、持ち出しています。
そして、それをさらに展開させて「一人の罪」と「一人の正しい行為」を対比させて語っているのです。
私たちは罪の赦しということを考える時、イエスの十字架の死「贖罪死」ということに焦点を当てて考えます。そのこと自体、何も間違ったことではありません。
しかし、パウロはここで、もう一歩踏み込んで、罪の赦しについて語っています。それは「一人の正しい行為」というように、イエスの行為にふれているのです。
イエスの生涯を見る時、私たちはその徹底した神への従順な姿を見ることが出来ます。ここにはアダムの不従順さとイエスの従順さが対比されていると言えるのです。
19節では「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」とあります。一人の人の不従順、つまり、アダムの不従順さはどのような結果を生んだのでしょうか。それはアダムの犯した不従順という罪によって、全人類が罪人とされ、死が入り込んだということです。神への不従順の結果は、罪と定められることなのです。
それに対してイエスの従順さはどんな結果を生んだでしょうか。イエスの従順によって、全ての人が正しい者とされる、つまり、神から義と認められるということです。さらに、パウロは18節の後半で「すべての人が義とされて命を得ることになったのです」と語っています。つまり、神への従順の結果は、義と認められ、いのちを得るということなのです。
【宗教家の姿】
ローマの信徒への手紙のなかで、パウロは繰り返し、人は律法の行いによって義と認められるのではなく、神を信じる信仰によって義と認められると語っています。しかし、信仰と聞くと、私たちには、あまりにも抽象的で漠然としたものとして感じられるのではないでしょうか。
もちろん、信仰とは「これです」と言って見せることの出来るものではありません。信仰そのものは目に見えませんが、信仰による行為として人の目に映るものがあるのです。パウロはイエスが生涯をとおして、示された、従順な態度がそれであると語っています。
私自身にも、そういうところがあるので、裁きの言葉ではなく、自分にも言い聞かせている言葉として聞いていただきたいのですが「口だけで何もしない」人というのが、私たちのまわりにはたくさんいます。口ではもっともらしいことや立派なことを言っているけど、その人の生活態度を見ているとどうも納得いかないということがよくあります。
当時の宗教家たちの多くが、そのような人だったようです。律法に書き記されている立派なことを人々に説いている。そして、その人たちの行動を見ると、一見、規律正しく宗教的に見える、しかし、自分の中から湧き出ているものとは違い、義務感でやっていたり、人からの称賛が欲しくてやっていたりする。一般の民衆もその事に気付いていたのです。
しかし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、私たち自身もそういった宗教家に対して律法的な目を持って「宗教家はこうあるべきだ」という虚像を作り上げているということです。
ですから、当時の宗教家たちだけが悪いわけではなく、その取り巻きとしての一般民衆、また、今の私たち自身もそのような色眼鏡を捨てなければならないのです。
【イエスの生きざま】
そんな時に、イエスが現れたわけです。イエスも民衆に向かって語りかけました。しかし、それは祭司や律法学者たちのようではなく、権威ある者のように語られたのです。マルコ福音書1章22節には「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と書かれています。
イエスも立派なこと、もっともらしいことを語ったのでしょうか。これについてはそれぞれのイメージするイエス像と聖書の読み方、解釈の仕方で違ってくるかもしれません。
ただ、一つ確かなことは、イエスはガリラヤで生活し、そこで福音を語っていたということです。ガリラヤは比較的、緑豊かでガリラヤ湖の恵みを受けた良い地でした。しかし、人々の生活は支配者たちからの搾取によって非常に苦しいものでした。
領主ヘロデに対する貢物、ローマ帝国に対する税、そして、エルサレムに対する神殿税、これら三重の取り立てで、自分たちの手に残るものは、わずかでした。多くの人は先祖から受け継いだ土地を手放さざるを得ない状況に追い詰められ、貧しい小作人となって借金に苦しんでいたと言われています。
イエス自身も大工として働いていたようですが、同じように貧しい生活だったようです。そして30歳になった頃から福音を語り始めるわけです。イエスの語る言葉は立派なこと、もっともらしいことというより、共感できるものだったのではないでしょうか。
祭司や律法学者たちのような宗教家的な言葉ではなく、宗教家らしからぬ言葉だったでしょうし、その行いも宗教家らしからぬものだったのです。宗教家たちが絶対に交わることのない、徴税人や娼婦、病人たちと共に食事をしていたのです。
なぜでしょうか。そこには愛があったのです。苦しみの中にいる人々、悩みを抱えている人々、人からさげすまれている人々、いわゆる社会的弱者と呼ばれる人々と同じ側にいたわけですから、彼らの視点でものごとを見ていたのです。
「あなた方を愛しますよ」というのではなく、一緒にいたのです。一緒にいることによって関係性が成り立ち、関係を持つことによって、そこに愛が芽生えていったということです。
【神への従順】
パウロは19節の後半で「一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」と語りました。初めにも言ったように、イエスは徹底して神に対する従順な態度をとり続けました。
神に対する従順な態度とは何でしょうか。律法を厳守することでしょうか。もちろんそれも一つの在り方だと思いますが、その動機と目的が問題となるのではないでしょうか。
なぜ、何のために律法を守るのか。律法は神が私たちに罪を自覚させるために与えてくださいました。アダムの不従順と同じように、神に対する不従順な態度をとっている自分に気付かせてくれるのが律法です。
そして、神の前に従順でありたいと願いながらも、なかなか従順になれない自分に気付いた時、一人の人の従順によって、神から正しい者と認められるようになったという言葉を思い出さなければならないのです。
今、ウクライナでの出来事を思う時2003年3月に起こったイラク戦争を思い出します。連盟では2002年11月に連盟総会で「平和に関する信仰的宣言」いわゆる「平和宣言」が採択されました。そして、イラク戦争直前の2月に「平和宣言」に動かされ、現在、市川八幡教会の牧師をされている吉高叶先生が「対イラク戦争突入の回避を祈る無期限断食行動にあたって」という宣言文を掲げて、断食行動を起こされました。
「平和宣言」も吉高先生の行動も、イエスの言葉に動かされ「私たちは殺さない。そして、殺させない」また「教会は戦争の役に立たない者として生きる」と告白しました。
パウロの語る「一人の正しい行為」これはまさに神への絶対的な服従を貫いたイエスの姿です。そして、それによって「すべての人が義とされて命を得ることになった」と言うことです。不義のあるところに争いがあり、痛みや、死があるのです。
しかし、義のあるところには争いではなく、平和が訪れるのです。平和なところには命があるのです。神から与えられている、尊い命を誰も奪ってはいけません。奪わせてもいけないのです。
神が与えてくださった命を守るという姿は、そのまま神に対する従順な姿と重なり合わされるのではないでしょうか。
讃 美 新生661 聞け 主のみ声を 主の晩餐 献 金 頌 栄 新生669 みさかえあれ(B) 祝 祷 後 奏