前 奏
招 詞   詩編126編2節
讃 美   新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
讃 美   新生507 主の手に委ねて
主の祈り
讃 美   新生376 友よ聞け主のことば
聖 書   ローマの信徒への手紙6章1~4節
                     (新共同訳聖書 新約P280)

「新しい命に生きる」               ローマの信徒への手紙6章1~4節

宣教者:富田愛世牧師

【生まれかわり】

 今日のタイトルは「新しい命に生きる」というものですが、日本語として少し変な感じがしませんか。どうでしょうか。

教会の中に長くいると、あまり違和感のない言葉だと思いますが「命」という言葉の中にはすでに「生きる」という意味が含まれているわけで、「命に生きる」というのは同じ意味の繰り返しで、正しい日本語ではないのかなと思っています。

私自身は日本語の専門家ではないので、この言葉が正しいのか、正しくないのかは分かりません。しかし、日本語として正しいとか、正しくないではなく、ここに大きな意味があるので、今日はそれをご一緒に聖書から聴いていきたいと思っています。

 「新しい命」と聞く時、皆さんはどんなものを想像するでしょうか。クリスチャンの発想とそうでない人の発想とでは違いがあるようです。

私の友人の中で仏教的な背景を持つ人にとって「新しい命」という言葉の次に続く言葉は「生まれかわる」というものでした。「新しい命に生まれ変わる」という発想がほとんどだったのです。ここには「輪廻転生」という思想があります。

命のあるものには全て魂が宿っていて、肉体は滅びても魂は生き続け、人間や動物、草木、そして最高位には仏があり、それらに生まれ変わるというものです。さらにこの思想の背景には「因果応報」という思想があります。

生前善行をつめば、来世には、位の高いものに生まれ変わることが出来る。反対に悪行を行えば、来世は位の低いものに生まれ変わり、苦しむというのです。

これは多くの日本人の死生観に影響を与えています。しかし、これは日本人だけでなく、似たような思想は世界中に見られるものなのです。

【罪にとどまるべきか】

 パレスチナの地方にももちろん、このような思想はあったようです。ユダヤ教から初期のキリスト教にいたるまで、律法主義者といわれる人々がいました。律法主義者にとって律法を守ることは、日本的に言うなら善行を積むということと同じことです。

また、ヨハネ福音書9章では、生まれつきの目の不自由な人をイエスが癒される記事がありますが、そこで弟子たちは「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と質問しています。善いことをすれば、善い結果。悪いことをすれば、悪い結果が出るという、因果応報の思想そのものです。

 ローマの信徒への手紙の中でパウロが一貫して語っているのは「人は律法の行いによって義と認められるのではなく、信仰によって義と認められる」ということです。因果応報ではないというのです。

そして、この信仰は恵みの賜物であると語るのです。人が義と認められるのは、努力や精進、修行といった善行を積むことではなく、神を信じる信仰によってのみ義と認められると語るのです。恵みの賜物は、一方的に与えられるものなのです。

 パウロの語る福音を純粋に喜び、受け入れる人もいましたが、これを曲解して受け取り、罪を犯すことの正当な理由付けにしようとする人々もいたようです。「ただ与えられるなら、何もしなくていい、律法も必要ない」と理解し、律法を無視し、反律法的になり、律法から解放された、自由になったと言いながら、ただの無秩序な状態になってしまうのです。

 また5章20節にある「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」という言葉を自分勝手に解釈し「罪を犯すことが恵みにいたる極めて簡単な道」と誤解する人もいたとニグレンという神学者は語っています。

 このように因果応報的な思想、律法主義的な思想を持つ人にとっては、パウロの語る福音は攻撃の的となりました。そこでパウロはこれらの誤解を解くために、1節にあるような問いかけをし、さらに2節以降でハッキリとした態度で、それを否定しています。

【決してそうではない】

前回、言ったように、罪と恵みは同列にあるものではなく、圧倒的に恵みのほうが勝っているのです。恵みを受けるために罪にとどまるという考え方では、最初は恵みの無い状態があり、その時に罪の中にいることによって、恵みが与えられるということになります。しかし、聖書が語ることによれば、神は最初に恵みを用意してくださっていたのです。恵みのほうが先に与えられているのです。

トゥルナイゼンというスイスの神学者はここで、とても分かりやすい例えを話しています。「母親が子どもに向かって『私はお前を愛している』と言うと、その子どもがそのために軽薄になって、母は自分を愛しているのだから、自分は好き勝手なものであってよいと、考えるようなことが、起こりえることになる」というのです。

どうでしょうか。今の時代ならあり得るかもしれないと一瞬思うかも知れませんが、ここで言う「愛」というものが、勘違いされたものでないならばあり得ないと思います。本物の母親の愛というものは、子どものことを自分のことのように思いやっているのです。

ですから、物質的に物を与えたり、過保護になったり、ただ子どもの言う通りにするということではありません。この辺を勘違いする人が多いので最近はおかしくなっているのかもしれません。

続けて「しかし実際には、その子どもは次のように考えるであろう。『母はこのあるがままの私を愛してくれるのだから-そしてその愛は私が善良な人間か悪い人間かということに無関係なのだから、それだからこそ私は、自分の行いを真剣に考えなければならない母の愛の故にこそ、私の邪悪なすべての行ないは私を苦しめ、私は母の意思を尊重するのだ』と。母の愛は子どもを正しい行いへと駆り立てるのである」とこう言っています。(われ山に向かいて眼をあぐ 新教新書)

私たちと神との関係も同じではないでしょうか。私たちは社会において誰かから期待されることを求めています。誰からも期待されなくなったら生きている価値がないと思ってしまいます。しかし、社会生活においては、いつまでも誰かから期待され続けるとは限りません。期待されなくなる人もいるのです。これが厳しい現実です。

しかし、神は私たちに期待をし続けているのです。学校における成績や会社におけるノルマのような期待ではありません。ここにいて、生き続けることを期待しているのです。期待される時、期待する人の気持ちに応えようとします。そこで出てくるものが、強いられたものではない、自発的な行いなのです。

【死にあずかるバプテスマ】

 この自発的な行いの一つが、罪に対する死です。新しい命に生きるためには、古い命を葬る必要があります。つまり、古い自分を捨てて、新しく生まれ変わるのです。

古い命とは罪の中に生きている命です。この罪とは私たち人類にとって最大、最強の敵です。罪の結果は「死」です。誰一人として、この罪という敵、そして、その結果である死に勝つことはできません。そこで神はご自身のひとり子であるイエスを私たちの代表として、その罪の結果である死に渡されました。

死を経験してくださり、私たちの身代わりとなったのです。それは一方的な神の哀れみなのです。因果応報という思想のなかでは理解できない方法を神はとられました。なぜなら、神は愛と哀れみを持っておられるからです。

因果応報という思想の中には愛や哀れみはありません。ただ行いと結果だけがあるのです。この神の愛を受け入れる事を表すしるしがバプテスマだと言うのです。バプテスマは単なる宗教的な儀式ではありません。私たちが行っているバプテスマは水の中に全身を沈め、そこから上がってきます。

これは、全身を水に沈めることによって、今までの罪の中にある自分が死ぬこと、古い自分の葬りを表します。そして、そこから出てくることは、新しい命、イエス・キリストに与る命に生きることを表しているのです。もちろんそこには「イエス・キリストが私の救い主です。神です」と言い表す信仰告白がなければなりません。

信仰告白を形として表すものがバプテスマなのです。形としての信仰の告白なのです。また、そこにはキリストの体としての教会の一員になるという意味も含まれています。教会の一員、それは神の家族となることです。家族として生きるということには責任も伴うのです。

家族とお客さんの違いは明確です。お客さんはあくまでも他人なのです。しかし、家族は家族です。他人ではありません。だから責任が伴うのです。そして、その責任とは強いられるものではなく、自覚的に生まれてくる責任なのです。神の愛を受けた者が、愛されているのだから好き勝手にしていいというのではありません。その愛に応えていこうとする、それが新しい命に生きるということなのです。

讃 美   新生404 聖なるみ霊よ 来りませ
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏