前 奏
招 詞   ミカ書6章8節
讃 美   新生 20 天地治める主をほめよ
開会の祈り
讃 美   新生 56 朝風しずかに吹きて
主の祈り
讃 美   新生261 み霊なる聖き神
聖 書   ローマの信徒への手紙6章15~23節
                  (新共同訳聖書 新約P281)

「賜物に生きる」                  ローマの信徒への手紙6章15~23節

宣教者:富田愛世牧師

【繰り返し】

 パウロはこの6章の中で同じような事を何度も繰り返しています。1節では「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない」と語り、15節では「恵みの下にあるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない」と語っています。皆さんも、もう何度も聞いて、読んで「耳にタコができるよ」と言われるかもしれません。

しかし、皆さんの耳にタコが出来てもいいから、今日も繰り返し、語りたいと思っています。それくらい大切なことなのです。そして、耳にタコができるくらい聞いていても、すぐに忘れてしまうくらい、弱い存在なのだということを知らなければならないのです。

 パウロが言い続けたことは「人は律法の行いによって救われるのではなく、神を信じる信仰によって救われる。この信仰は、神によって与えられる恵みの賜物である」ということです。これはパウロの考えではなく、イエスの生きざま、その語られた言葉、つまり、福音そのものなのです。

しかし、当時のファリサイ派や律法学者たちには、この福音が理解できず、自分たちの守ってきた伝統を壊してしまうもののように感じたのです。そして、信じるだけでいいなら、何もしなくていいのではないかと極端な解釈をして、パウロの語る福音に反対したのです。

さらにこのような誤解が広がり、罪の赦しが、恵みの賜物として与えられるなら、罪を犯しても構わない。大いに罪を犯せば、より大きな恵みが与えられる、と勝手な解釈が広まって、自分勝手な生き方をしても構わないという人が現れたのです。このような誤解に対して、この6章でハッキリと「そうではない」と語り、真理を伝えようとしているのです。

 そして、いつまでも変わらない大切なものがある。それをパウロは繰り返し、語り続けるのです。

さらに、パウロはここでクリスチャンに向かって「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」とハッキリ告げているのです。キリストの救いに与った者は、恵みの下に招かれたのであって、律法の下には、もういないのだとハッキリ語るのです。

 

【奴隷】

 さて、メッセージの準備をする時、テキストとして与えられた箇所を何度も読んでいます。今回も15節以下を読みながら、いくつかの言葉が残りました。今回のタイトルにも使っている「神の賜物」や「奴隷」「自由」といった言葉が心に残りました。これらの言葉をキーワードとして今日の箇所をご一緒に読んでいきたいと思っています。

 

始めに「奴隷」ですが、私たち日本人にとっては、この奴隷という言葉は、あまり馴染みのないものではないかと思います。私自身がこれに関しては不勉強なので、知らないだけなのかもしれませんが、私たちが一般的にイメージする奴隷制度というものは、日本の歴史の中には登場していないと思います。

しかし、 200年程前までは、何の疑いもなく、人間が人間を道具のように扱う奴隷制度というものがありました。アメリカの南部の農場などで働かされていた、黒人の奴隷を題材にした小説や映画によって、その実態を知ることができると思います。

 

パウロの時代の奴隷には、幅があったようです。ローマ帝国の時代ですから、土木建築系の過酷な労働をする奴隷もいましたが、一般家庭で働く奴隷もいたようです。そして、その主人によっては、ある程度の自由を認める人もいたし、経済的困窮によって奴隷として身を売った人は、働きに応じて、わずかですが、給料をもらい、それを貯めて自分自身を買い戻すこともあったようです。

しかし、いずれにしても奴隷の運命というものは、主人次第であったし、奴隷として働かされている間は、主人に対して絶対服従だったのです。

 パウロは16節で「奴隷」を例に出して、神に従うべきか、罪に従うべきかと問いかけるのです。そして、すぐに17節で、その答えを出しているのですが、その前に「神に感謝します」と告白しています。この順番にはパウロの思いが込められているのではないかと思います。

パウロ自身が律法の奴隷、罪の奴隷として生活していました。その辛さ、苦しさを人一倍、感じていたのです。だから、まず感謝をのべ、続いてその答えを出しているのです。

かつては罪の奴隷として、罪に従っていた。罪の言うとおりに罪を犯していたと言うのです。その行き着く先は死であるにも係わらず、誰からもそれを知らされなかったので、そこに向かって進んでいたというのです。しかし、今はもう、そこから解放されたのです。

 ここで一つ大切なことは、前にも話しましたように、解放されて、赦されて、それだけで「ありがとう」ではいけないということです。心の中の王座に次の主人を座らせなければならないのです。ここでは「伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、義に仕えるようになりました」とあります。

罪から解放された者は、次は義に仕える者とならなければなりません。義の奴隷となるということなのです。奴隷という言葉はあまり、印象がよくないので、言い換えるならば服従するということです。義に服従する、つまり、神に服従するということなのです。

【自由】

この先、読んでいくと20節に不思議な言葉が出てきます。「罪の奴隷であったときは、義に対して自由の身でした」これはどういう意味なのでしょうか。

私たちにとって自由という言葉は とても魅力的な言葉だと思います。「あなたの好きな言葉は」とアンケートなどをとると「愛」や「平和」に並んで、上位に入る言葉ではないかと思います。

中学生の頃、ある先生から「自由というのは、決められた範囲やルールのなかで自由に振る舞うことで、その範囲やルールから外れたところでは自由と呼ばない」と言われました。

私たちの神は秩序の神でもあります。この世界をただなんとなく、無秩序に創られたのではなく、秩序正しく創られました。自然界に存在するものは、すべて一定の秩序の下に廻っています。本来、私たち人間もその秩序のなかで自由に自然と共存していたのですが、罪が入り込むことによって、その秩序が乱され、自由が奪われてしまったのです。

罪の奴隷とは、秩序の中にいないことを現しています。秩序のない中で、義に対して自由であったということは、義なる行いをする自由と同じように、義なる行いをしない自由も与えられているということです。この自由というものは名前だけのもので、その実態は無秩序ということなのです。

無秩序な状態のなかで「どんな実りがありましたか」とパウロは問いかけます。その実りとは「今では恥ずかしいと思うもの」なのです。ガラテヤの信徒への手紙5章19節以下には「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」とあります。そして、これらの行き着く先は「死にほかならない」というのです。

【賜物に生きる】

奴隷が自由にされるためには、何が必要でしょうか。奴隷の側には何もできません。主人からの印象をよくしようとして、一生懸命、働くなら、良い奴隷だと評価されいつまでも、留めておかれるでしょうし、怠けているなら、ムチ打たれたり、罰が待っているだけです。しかし、もし主人が哀れみをかけ、自由を与えようと考えるならば可能になるのです。

パウロは私たちが罪の奴隷か、神の奴隷か、どちらかだと言います。もし、罪の奴隷だったとしたなら、哀れみを期待することはできません。それならば、罪の奴隷だった者に救いの道はないのでしょうか。一つだけあるのです。それは、対価を支払って、誰かが買い取るということです。

奴隷というものは主人にとっては「道具」でしかありません。ですから、対価を支払って買い取ることが可能なのです。神はそのようにして、私たちを罪の奴隷だった状態から、対価を支払って、買い取ってくださったのです。その対価がイエス・キリストなのです。

イエス・キリストという対価を支払い、買い取られた私たちは、神の奴隷となりました。この神という新しい主人は、私たちに哀れみをかけてくださったのです。この哀れみが神の賜物なのです。

私たちが、よく働く奴隷だったからではありません。忠実な奴隷だったからではありません。将来、期待できそうな奴隷だったからでもありません。そんな打算的な思いではなく、その哀れみによって、愛によって買い取られ、私たちは自由になったのです。

この自由は、罪の下にある無秩序ではありません。神の秩序の中にある自由です。神の秩序、それは「義」なのです。

神の賜物に生きるということは、イエス・キリストによる永遠の命に生かされるということなのです。

讃 美   新生554 イエスに導かれ
主の晩餐
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏