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聖 書   ローマの信徒への手紙7章1~6節
                (新共同訳聖書 新約P282)

「霊に生きる」                  ローマの信徒への手紙7章1~6節

宣教者:富田愛世牧師

【律法の下】

 今日から7章に入りますが、7章全体のテーマは「律法からの解放」ということです。そして、今日お読みした1~6節においては律法の下にある人間について書かれています。これもまたパウロが何度も繰り返して述べていることです。

しかし先週も言ったように、とても大切な事柄であるし、耳にタコが出来るほど聞いて、一人一人が自分の事として、聞いていかなければならない内容だと思っています。

 パウロは6章14節で「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と断言しています。ですから、今は恵みの下にあるということを前提として語っているのです。私たちはそれぞれの生き方において「今日からこうしよう」と決断したとしても、必ず、その時から完全にそうなれるわけではありません。決めたとおりに出来る日もあれば、元に戻ってしまう日もある。そのうち少しづつ元に戻らない日が増えていって、やっと決めたようになれる。ということが多いのではないでしょうか。

信仰生活においても同じことが言えると思います。律法の下ではなく、恵みの下にいるということは、分かっているけれど、律法の下にいる時のような生活に戻ってしまう日もあるのです。だからパウロは7章に入っても6章で語ったことを繰り返しているのです。

 7章は6章からの直接の続きではありませんが、流れとして6章を踏まえておく必要があります。また、言葉としても6章にある言葉とパラレルに結びついているものがあります。6章2節に「罪に対して死んだ私たち」と7章4節の「律法に対しては死んだ者」、6章7節の「死んだ者は罪から解放される」と7章6節の「自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されるのです」

このように基本的には、6章の罪という言葉が、7章では律法と言い換えられているように思います。しかし、だからといって律法イコール罪ということではありません。もしそうだとしたら、神が人間に対して、律法という罪を与えられたということになってしまいます。そうなったら、福音というものが、神の恵みの賜物ではなく、賠償責任のようになってしまいますので、そういうことではありません。今日はそこのところを、ご一緒に見ていきたいと思っています。

【法による拘束】

 1~3節で、パウロは結婚という関係を例に出して語っています。ただしここで語られる結婚観と現代社会に生きる私たちの結婚観には大きな違いがあることを忘れてはいけません。当時の社会において結婚というものは現代社会の結婚と違い、二人の気持ち、愛情によって成立するようなものではありませんでした。

 

 もちろん、例外的にそのような結婚もあったかもしれませんが、ほとんどは親同士によって決められたものでした。結婚するまで、お互いの顔も知らないということもあったようです。また、結婚する男と女が同等の権利を持っていたかというと、そうではありません。当時は男尊女卑の社会で、男には権利がありましたが、女にはありませんでした。女にあるのは、ただ夫に従うという義務だけだったのです。

 ここには結婚した女と最初の夫、そして、その夫が死んだあとに現れるもう一人の男という3人の登場人物があります。それぞれが何を意味しているかお分かりでしょうか。

結婚した女とは、私たち人間のことです。そして、最初の夫、これは律法を意味しているのです。また、先程この7章と6章はパラレルに関係していると言いましたように、ここで律法と言われる言葉は、罪と言い換えることも出来るので、最初の夫は罪ととることもできます。そして、夫が死んだ後に、その元妻と結婚する他の男がキリストを意味しているのです。

パウロは分かりやすく説明するために、このような例を出したのだと思いますが、あまり適切な例えではないような気がします。特に私たち日本人にとっては、法的な繋がりも大切ですが、情というものに対しても「法」以上の価値をおくことがあります。いくら法的に解放されたとしても、死んだ夫に対する情がすぐ消えるわけではないので、納得しにくい部分があると思います。

また、結婚という現実的な例を出すと、結婚生活について考えてしまい、最初の夫との結婚生活は幸せだったのかな、不幸だったのかな。また、再婚しない時はどうなるのだろう、といらないことを考えてしまいますが、そうではなく、話の中心は契約ということです。契約ということだけに割り切って考えるならば、道理の通る事柄ではないかと思います。

 

キリスト以前の人間は罪の支配、律法の支配の下にいました。ここで「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれている」と言われています。ここには愛情などの感情というものは全く関係なく、法的な手続きだけが書かれています。

結婚という契約関係で、女は夫が生きている間は、夫に縛られていました。しかし夫が死ぬと、その拘束から解放されるというのです。私たち人間は生まれながらにして、罪という夫と婚姻関係を結ぶ運命でした。しかし、罪という夫が死んでしまったなら、その婚姻関係から解放され、好きな男の人と結婚できるというのです。そこに現れる魅力的な男がキリストだとパウロは語るのです。

【主義からの解放】

先程、罪イコール律法ではないと語りました。7章12節を見ると「律法は聖なるものであり」とあります。律法そのものは聖なのですから、もちろん罪ではありません。律法と罪とが同じように感じるのは、私たちの律法に対する関わり方なのです。

罪と映るような関わり方を「律法主義」と呼びます。律法が罪と結びつくのは律法「主義」という私たちの生き方なのです。私たちの生き方が罪を招くのですから、私たち自身が死ななければなりません。「私の死」と言うことをパウロは6章で語ってきましたが、私の死を語るだけでは不十分なのです。

私を死にいたらせる「律法主義」と、そのような生き方を引き起こす「律法」の死について語らなければ十分とは言えないのです。そこのところを説明するためにパウロは夫婦関係を例に出して語ったのです。

私たちと律法との関係は、夫と妻のように簡単に離れることが出来ないものなのです。私たちは、律法が重荷だと言いながら、実際は、律法的な生き方が好きなのではないでしょうか。少なくとも律法的な生き方というものは、とても生きやすい生き方なのです。それを守ることが出来るとか、出来ないとかではなく、少なくとも努力目標がハッキリしているので、それに向かっていけば良いわけで、とても分かりやすい生き方なのです。自分で考えるのではなく律法というマニュアルに従いさえすれば良かったのです。

当時、律法主義的な生き方をしている人の代表と言えば、ファリサイ派の人々や律法学者たちでした。しかし、彼らだけではなく、律法を守れないと言って、うなだれている取税人も律法主義的な生き方をしていたのです。ファリサイ派や律法学者は「自分は律法を守っている」と自負していました。これは神の目から見るなら傲慢以外の何ものでもありませんでした。それに対して取税人たちは守れない自分を見つめ、うなだれているのですから、謙虚な生き方に見えるかもしれません。

しかし、彼らも自分で自分の義を確保しようとしていたのですから、究極的にはどちらも同じ考え方をしていたのです。自分で自分の義が確保できないから、うなだれていただけなのです。信仰とは神を見上げていく行為ですから、どちらも信仰的な生き方ではないのです。

日本の教会の中にも似たような律法主義が巣くっているのではないでしょうか。元気のよさを売り物にするような教会では、ファリサイ派や律法学者的に「私は信仰を守っています」という自負、傲慢さが表れますし、厳粛さを売り物にするような教会では、徴税人のように「私は信仰を守りきれない」といって、顔を天に向けることもできず、うなだれ、内面の成長のために努力を続けていくのです。しかし、うなだれた顔を神に、天に向けて上げた時から、私たちの信仰生活は始まるのではないでしょうか。

【霊に生きる】

最初に7章全体のテーマは「律法からの解放」だと言いました。そして、それと同時に解放された者は、同時進行として、キリストに属する者、キリストに支配される者となることをも語っているのです。解放だけでは十分ではありません。前にも言ったように、私たち人間の心には、心の王座があり、そこに誰が座っているかが問題なのです。

律法主義という生き方を、私たちは捨てなければなりません。しかし、捨てるだけでいいかというとそうではないというのです。捨てると同時に、新しい「霊」という主人を心に迎え入れなければならないのです。

霊という新しい主人を迎え入れることは、簡単なことではないかもしれません。律法主義というマニュアルがなくなってしまうわけですから、これからは自分で考えなければならないのです。それもただ、考えるだけではありません。「霊に従う新しい生き方で仕える」つまり、霊に従って考えていくのです。

霊というと何か、直観的に感じるものを想像するかも知れませんが、それだけを霊だと思っては危険です。ある時は自分勝手な思い込みだったりする事もありますし、悪い霊によるものかも知れません。テモテへの第二の手紙3章16節に「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」とあります。つまり聖書に書かれてある御言葉が、いま私たちに与えられている霊を知る、一番正確な方法なのです。そして、教会という群れが、その霊を確認し、お互いに分かち合うために備えられている場所なのです。

律法主義から解放され、霊に従う新しい生き方で、私たちはキリストに仕え、教会に仕える者とされていくのです。

讃 美   新生544 ああ嬉しわが身も
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏