前 奏
招 詞   イザヤ書26章12節
讃 美   新生 20 天地治める主をほめよ
開会の祈り
讃 美   新生105 くしき主の光
主の祈り
讃 美   新生435 山辺に向かいてわれ
聖 書   ローマの信徒への手紙7章14~25節
                       (新共同訳聖書 新約P283)

「人間の惨めさ」                 ローマの信徒への手紙7章14~25節

宣教者:富田愛世牧師

【わたしの望み】

 「今、あなたの望みを一つだけ叶えてあげます」と言われたら何を願いますか?おそらく、すぐに返事をすることのできる人は少ないと思います。いくつでも叶えますと言われれば、思いつくことを次から次へと口に出すことができるのかもしれませんが「一つだけ」と言われると一日中考えても答えを出すのが難しいのではないでしょうか。

しかし、もしも、目の前にとても大きな障害があったとするならば、それを取り除いてもらいたいと願うはずです。例えば、1週間前から食べ物がなく、飢え死にしそうだ、などという状況だったとすれば、すぐに食べ物をくださいと答えるかもしれませんし、死にそうな病気にかかっていて、苦しくてたまらないような時ならば、病を癒してほしいと願うのかもしれません。

そのような具体的な問題に直面している時には、その問題が解決されることを願います。しかし、それらの問題が解決したり、それ以外の事柄で私たちが生活するための衣食住が満たされれば望みがかなったことになるのでしょうか。一時的には満足感を得ることができるのかもしれませんが、そのような満足感はすぐに消えてしまうような気がします。

わたしの望みとは何なのでしょうか。とても難しい問いかけだと思いますが、究極的には「自分の幸せ」ではないかと思うのです。自分が幸せでいることを望まない人はいないと思います。

時々「自分の幸せより、家族の幸せ、子どもの幸せ」と答える人がいますが、本当にそうでしょうか。家族が、また、子どもが幸せでいる姿を見て、自分も嬉しい、幸せだと感じる、とするなら、それは自分の幸せだと思います。

究極的には自分の幸せを望んでいるわけで、その延長線上に家族や子どもの幸せがある。そして、自分以外の人の幸せも願うことができるようになるのではないでしょうか。

これは利己主義でも何でもない、自然な感覚だと思うのです。そして、この感覚から、誰かのためにとか、役立つことをしたいというような、道徳的な善い思いが湧き上がるのではないかと思います。ただし、自分が幸せであることが大前提となる場合です。

【わたしは肉の人】

先ほど読んでいただいた14節には「律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」と書かれています。

律法は霊的なもの、つまり、神の意思を形として表していると分かってはいるけれど、律法を行う人間の方は肉の人であり、罪に売り渡されているので、それを実現することが、限りなく難しいのです。

律法を守ることだけではなく、人間の中には、誰かのために何かしたいという善なる思いがあります。

性善説とか性悪説という考え方があります。それぞれに、人間は生まれながらに善であるとか、悪であると定義づけしようとしています。しかし、はっきりと分けられる問いかけではありません。

自分が幸せであると自覚している時は、比較的性善説的な言動が目立つようになるけれど、自分が不幸の只中にいるというような否定的な思いに捉われている時は性悪説的な言動になってしまうのではないでしょうか。

そして、実際の人間には善いところと悪いところが渾然一体となっているのです。ヒューマニズムも人間を善とします。しかし、人間の考える善が本当に正しいものなのでしょうか。

ウクライナの正義とロシアの正義を考えると、どちらも正義ではありません。

パウロは15節で「自分の望むことは実行せず」と語ります。人の行いはまことに矛盾に満ちたものなのです。

【わたしの中に住む罪】

罪とは大いなる矛盾です。11節にあるように「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き」とあります。律法や掟によって機会を得たのならば、罪を犯さないようにしようと思うはずなのです。しかし、現実には律法や掟が罪によって欺かれて、私たちは罪を犯してしまうのです。

この大いなる矛盾こそが罪なのです。しかし、私たち人間が罪だということではありません。私たちの中に罪が住んでいるのです。

17節には「そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」とあり、

20節では「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」と書かれています。

7節で「律法は罪であろうか。決してそうではない」と語るように、人間は罪であろうか。決してそうではない。ただ、人間の中に罪が住んでいるのだというのです。

さらに18節に「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」と語っています。先ほど人間は性善説としての存在なのか性悪説としての存在なのかということを言いましたが、人間が善とか悪というのではありません。

しかし、敢えてどちらなのかというなら、神によって創造された者なのだから善なる存在だったということができるでしょう。ただし「だった」という過去形を使わなくてはいけないと思います。

その名残として「善をなす意思がありますが」ということなのです。頭の中では善を行おうと思うのです。しかし、現実を目の前にする時、様々な思いに捉われて、思っている善を行えなくなってしまう、そんな弱い惨めな存在なのです。

この現実に向き合うときパウロは24節にあるような叫びをあげているのです。24節を見ると「わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と神の前に助けを求めているのです。

【罪との決別】

しかし、そんな叫びをあげても、それで終わりではありません。「死に定められたこの体から、誰が救ってくれるでしょうか」と問いかけ、25節でキリストを通して神に感謝をささげています。

25節を読むと「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」と告白しています。

善を行いたいと願っても、善を行うことができず、かえって憎んでいることを、望まない悪を行ってしまう。そのような惨めな存在がわたし自身なのだと語り、わたしの内には罪が住んでいると告白するしかないのです。

そのような惨めな存在だから死に渡されるしかない。しかし、そこから誰か救ってくれないかと、救いを求めているのです。救われることを望んでいるのです。

そのようなパウロのことを救ってくださるお方があるというのです。それがイエスなのです。イエスが救ってくださるのです。

律法の行いを大切にしてきた者にとっては、救われるために何をすればよいのかと尋ねるのが当然だったでしょう。しかし、福音は何かをしなさいとは命じません。私たちが救われるためには律法を行うのではなく、イエスを救い主と信じればよいのです。そもそも、律法を厳守することなど、誰にもできないのです。

神はキリストを通して、惨めな人間であるパウロを、そして、私たちひとり一人を愛しておられるのです。そして、そのような人間の罪を赦し、罪の中から救い出して下さるのです。ここに私たちの望みがあるのです。

讃 美   新生526 主よ わが主よ
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏