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「見えないものを望む」 ローマの信徒への手紙8章18~25節
宣教者:富田愛世牧師
【現在の苦しみ】
今読んでいただいた8章18節からの箇所は、今までのところと少し雰囲気が変わり、罪の問題から将来への希望が語られるようになっています。
18節の出だしは「現在の苦しみは」という言葉で始まっています。私たちの人生には楽しいこともありますが、苦しいことも必ずあります。パウロは「現在の苦しみ」と言って、誰もが苦しみを抱えているという現実に立って、話を進めようとしているようです。
当然のことですが、苦しみのない人生などというものはあり得ません。あり得ないにもかかわらず、人は苦しみからの解放を求めています。そのために、様々な解決方法を探し、その一つとして宗教に解決を求めようとします。
最近話題になっているカルト宗教があります。人々が抱えている様々な苦しみを解決しますと宣伝し、それらの苦しみの原因は先祖供養がされていないからだと言って、詐欺まがいの方法で壺や印鑑を売って儲けていたと言われています。今は団体名を変えて「平和」とか「家族」とかいう耳触りの良い言葉を使った名称になっているので注意しなければならないと思います。
キリスト教会の中にも「神を信じれば苦しみがなくなる」などと言っていたグループがありました。今もあるのかどうかは分かりませんが、とにかく祈れば何でも解決するというような信仰を掲げていました。
しかし、私たち人間がどんなにがんばったところで、苦しみはなくなりません。もちろん一時的には軽減するというような感覚はあるかもしれませんが、苦しみそのものがなくなるということはありません。
この世にある限り苦しみはなくならないということを、現実として捉えていかなければならないのです。
【神の意志】
それでは、ここで問題となっている苦しみはどこから来るのでしょうか。もちろん、同じ事柄に対しても、ある人は苦しみと捉えますが、別の人は苦しみではなくチャンスと捉えるかもしれません。このように受け止め方は十人十色になりますから、主観としてではなく客観的に苦しみと捉える時、聖書には大きく分けると2つの理由が示されています。
一つは神の意志であるということです。20節の後半を読むと「自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています」とあるように、神の意志によって苦しみが与えられる時には、同時に希望も与えられるということなのです。
この希望とはローマ5章3節以下を見ると「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」と書かれているように、私たちを成長させるものなのです。
また、苦しみという言葉から受ける印象はマイナスイメージが多いのではないかと思いますが、苦しみは必ずしもマイナスではありません。詩篇において「嘆き」は賛美でした。
詩篇の中には150篇の詩が集められていますが、そのうちの40編以上に、褒め称えるような内容の言葉が、直接的には使われていないのです。
しかし、詩篇は賛美が編集されたものなのです。私たちは勝手な先入観や思い込みで「これが賛美だ」と決め付けています。多くのクリスチャンは、いつも喜び、絶えず祈り、すべてを感謝する生活をしなければいけないと思い込んでいるのです。もちろん、そういう生活が出来るなら、それはそれで素晴らしい事です。それを否定する何ものもありません。しかし、それが律法主義的になり、そのような生活をしなければならないと思い込むなら、それはイエスが指し示してくれた生き方とは違うものになってしまいます。
そのような思いだけに凝り固まってしまうなら、毎日嘆いてばかりいるのは不信仰で、そのような自分は罪が赦されていないと思い、自分を責めてしまう事になります。しかし、それは勝手な思い込みや理想であって、聖書に立ち返るならば、そうではない事に気づくのです。
本来、賛美を受けるお方は神であり、神が「これが賛美だ」と決められたとするなら、それに反論する事は出来ないのです。同じように苦しみも賛美となるのです。
【罪による苦しみ】
もう一つは罪のゆえであるということです。これについては6章23節にある「罪の支払う報酬は死です」という言葉に集約されると思うのですが、人の内面にある罪は様々な形で表面に現れます。
不平や不満、限りない欲求、これらは罪の結果として、私たち自身を束縛し、苦しめるのです。そして、この苦しみの行き着く先は死であり、滅びなのです。滅びの先には何もありません。虚無だから苦しみ、恐れるのです。
このような苦しみに対して、誰もが避けたいと願っています。しかし、それは避けることのできない現実なのです。現実だと受け止めたうえで、どう対応するのかが問題になってきます。
つまり、そこから逃げるか、戦うか、受け入れるしかありません。
逃げるとするならば、どこに逃げるのでしょうか。戦って、もし勝つことができるのならば、そこに幸せが待っているのでしょうか。受け入れるにしても、ただ、目の前にある苦しみを受け入れるというのでは、マイナスイメージを払拭することはできません。
罪のゆえに苦しむということには、これという解決策はないのかもしれません。罪を犯すこと自体が、すでに苦しみになってしまうということなのです。
22節を見ると、罪による苦しみに限定されないものとして、被造物全体の苦しみということにも触れています。
自然界を見回してみるなら、あらゆる所に歪が生じているように感じます。最近の地球温暖化、地球が苦しんでいるのです。この温暖化に関連して、異常気象も自然界の苦しみの叫びなのではないかと思わされます。
【待ち望む】
23節を読むと「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」とあります。
苦しみがあることは、まぎれもない事実ですが、それで終わりではありません。先ほどから参考にしている他の箇所でも、苦しみの先にあるものを指し示しています。その先にあるものにも目を向けていかなければならないのです。
私たちは「霊の初穂」をいただいているのですから、神の子とされ、うめきながらも待ち望むことができるのです。霊の初穂、すなわち、キリストの救いが与えられるということによって、その先に希望を見ることができるのです。
苦しみを受け入れるということは、マイナスイメージを持っていると先ほど言いました。さらに聖書は神のなさったマイナスイメージを持たせるような業を伝えています。その最たるものがイエスの十字架だと言えるでしょう。
そのような一般的な常識から見てマイナスに思えるようなことにこそ、神の計画があると信じて、それに賭けていく時、苦しみというマイナスイメージがプラスに変えられるのです。
そして、罪、死、滅びという私たちを縛っているものから解放され、自由に生きることができるのです。
讃 美 新生566 主に任せよ 献 金 頌 栄 新生671 ものみなたたえよ(A) 祝 祷 後 奏