前 奏
招 詞   詩編34編13~15節
讃 美   新生 55 父の神よ 夜明けの朝
開会の祈り
讃 美   新生 27 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
讃 美   新生132 主よ おことばをください
聖 書   ローマの信徒への手紙8章26~27節
                        (新共同訳聖書 新約P285)

「聖霊の助け」                  ローマの信徒への手紙8章26~27節

宣教者:富田愛世牧師

【風】

 前回はローマの信徒への手紙8章18~25節を読み、私たちは苦しみの中にあるけれど、信仰によって、その苦しみが希望に変えられるという励ましを受けました。

今日の聖書は「同様に」という言葉で始まっています。ということは直前の25節にある「忍耐して待ち望む」ということにかかっていて、苦しみが希望に変えられるのを忍耐して待ち望むように「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」と読むことができます。

ところが、今私たちが読んでいる日本語に訳された聖書では、26節のところで段落が変わっているので、今言ったような読み方ができると思うのですが、原語のギリシア語では、段落が変わるようなことがなく、続けて書かれています。

つまり、翻訳する時に、その翻訳する人たちが、ここで段落を分けた方が意味が通じるだろうと考えたわけです。それが本当に正しいかどうかは実のところは分かりません。

もしかすると「同様に」という言葉は「霊」と「私たち」にかかっていた可能性もあります。そうするならば、霊もまた、十字架に架かられたイエスと同じように、ヒーローではなく、私たちの苦しみを共に担う方であるという解釈も成り立つのではないかと思います。

いずれにしろ、ここでは「霊」という具体的な概念によって話が進められているわけです。しかし、概念としては具体的なイメージを持つことができると思いますが、実体としての「霊」を見たことのある方はいないと思います。

見えない「霊」をどのように知り、感じることができるのでしょうか。とても興味深いことに「霊」と訳されているギリシア語は「風」と訳されることもある言葉なのです。

風も具体的な概念としてイメージすることができますが、風そのもの、実体を見たことのある方はいないと思います。風によって草木がなびき、雲が流れる。それらの現象を見て風を感じると思います。

霊も同じように実体を見ることはできませんが、様々な現象によって、その存在を感じていくようなものなのではないでしょうか。

【私たちの弱さ】

この「霊」が弱い私たちを助けてくださるのです。

ちょっと余談的になりますが、以前の口語訳聖書や新改訳聖書では、この「霊」を「御霊」と訳していました。しかし「御霊」という言葉は神道用語なので聖書の言葉としてふさわしくないということで直訳的な「霊」という訳になっています。

ちなみに「聖霊」と訳されている箇所もありますが、そういう時はギリシア語の原文にも「聖」という単語が使われているので「聖霊」と訳され、それ以外の時は、悪い霊もあるので「霊」と訳されています。

さて、話を今日の聖書に戻していきましょう。霊が弱い私たちを助けてくださると言われていますが、この霊は神の霊ですから聖霊と考えても良いものです。

聖霊が助けてくださるのは、弱い私たちです。この弱さということですが、私にとって「弱さ」ということにはマイナスイメージが伴います。

皆さんにとってマイナスイメージがあるかどうかは分かりませんが、私の中には植え付けられたジェンダー感として、男は男らしく、強く、たくましく、弱音を吐いてはいけないというようなイメージがあります。

そんなイメージによって「弱さ」にはマイナスイメージがついてしまっています。しかし、聖書の中で語られる時、弱さは決してマイナスイメージのついたものではありません。

かえって「弱さ」を認めるところの強さというものを逆説的に主張しているのではないでしょうか。

前回のところでは苦しみにはマイナスイメージが伴いますが、苦しいことは悪いことではなく、反対に苦しみも賛美となって、神のもとに届くのだということに気付かされました。

パウロはコリントの信徒への手紙二12章11節で「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と語っています。弱いからこそ、そこに神の力が表されるのです。

私たちの常識では、人前に弱さをさらすことは恥のように感じるかもしれませんが、神の前では、その弱さをありのままにさらけ出して構わないのです。そうした時に聖霊が私たちを助けてくれるのです。

【どう祈るべきか】

続く言葉は「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表されないうめきをもって執り成してくださるからです」となっています。

「祈りは信仰の呼吸」であると言われています。先週も話しましたが、いつも喜び、絶えず祈り、すべて感謝することがクリスチャンの理想の姿だと思い込んでいる方も多いと思います。これらを否定するものは何もありません。このようなクリスチャンになることができるなら素晴らしいことです。

しかし、そうなれない時もあるし、そうなれない人や自分もあるのが現実です。

私たちの弱さの中には「祈れない時」があるのです。そのような時にも聖霊は私たちのために執り成しをしてくださるというのです。

その執り成しの方法が、ここでは「言葉に表されないうめき」となっているのです。この「言葉に表されないうめき」とは具体的には「異言」と呼ばれるものだと思われます。

パウロの時代、コリントの教会に見られるように、霊的な熱狂主義者が教会内に問題を引き起こしていたようです。同じようなことはコリント教会だけのことではなかったと思われます。ローマの教会にもあったかもしれません。

ただ、ここでは霊的熱狂主義を問題にしているのではありません。聖霊が私たちを執り成してくださるということを語っているのです。

聖霊が私たちを執り成す時、私たちは、どのような聖霊をイメージするでしょうか。いつも言うようにヒーロー的な聖霊でしょうか。しかし、ここでは聖霊自身も言葉に表すことが出来ず、うめくしかないと語るのです。

聖霊も言葉を失った私たちと同じように、一緒になって言葉を失って、うめいてくださるというのです。

【聖霊の助け】

27節を見ると「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」とあります。

「人の心を見抜く方」とは神に他なりません。神は「“霊”の思いが何であるかを知っておられます」とあります。神と聖霊は同じですから、神が霊の思いを知っているのは当然だろうと思います。

しかし、ここで語られるのは、そうであったとしても、聖霊もイエスと同じように独立した存在として、私たち一人ひとりに働きかけてくださるということを意味しているのではないでしょうか。

さらに、独立しているからと言って、神の意思と関係なく、勝手に働くということではないようです。「“霊”は神の御心に従って」とあるように、独立しているかもしれませんが、勝手なふるまいをしているのではなく、神の計画の中で働いているというのです。

神の計画の中で聖霊は「聖なる者たちのために執り成してくださる」のです。「聖なる者たち」とは、神によって特別に召された者、複数形になっているということは教会を意味しているのではないでしょうか。

聖霊として働かれる神の力は、私たちと同じように、苦しみ、もがき、言葉を失って、祈れなくなるのかもしれません。ということは、上から目線で私たちを見ているのではありません。どこか上の方から私たちを監視しているのでもありません。

私たちの内にいてくださるのです。つまり、私たちの弱さを共に担い、私たちと一緒に言葉にならないようなうめきをもって神に執り成して下さるのです。

讃 美   新生261 み霊なる聖き神
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏