前 奏
招 詞   イザヤ書6章9節
讃 美   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
讃 美   新生 42 朝の光の中で
主の祈り
讃 美   新生413 主イエスのからだ分かち
聖 書   ローマの信徒への手紙8章28~30節
                  (新共同訳聖書 新約P285)

「万事が益」                    ローマの信徒への手紙8章28~30節

宣教者:富田愛世牧師

【神を愛する者】

 ローマの信徒への手紙8章28節で、パウロは「神を愛する者たち」と書き始めます。ここを読んで「私のことだ」と思える方はどれくらいおられるでしょうか。

  「あなたは神を愛していますか」と聞かれて「ハイ」と答えることのできる人は日本人には少ないのではないかと思います。他の国の人はどうか分かりませんが、日本人の関係性の作り方としては、自分から積極的にというよりも、受け身になることの方が多いのではないかと思います。

ですから「神に愛されている者たち」と言われた方が受け入れやすいような気がします。しかし、そのような質問に対しても、日本人のメンタリティーには「謙虚さ」というものが美徳として刷り込まれているので、無条件に「愛されている」と公言することは難しいだろうなと思います。

 どちらにしても「愛している」とか「愛されている」という関係性については、私を含めて即答できない方が多いのではないかと思います。しかし、ここでパウロが語ろうとしているのは、次に書かれているように「御計画に従って召された者たち」ということが大切になってくるのです。

神を愛する者たちとは、御計画に従って召された者たちのことを意味します。つまり、ここで最も大切なことは神の計画ということなのです。神の計画というものが何よりも優先されるべきものなのです。

神の計画とはとても大きなものですから、単純に「これです」ということはできませんが、今日の箇所においては、すべての人を御子の姿に似た者とすることなのです。

29節の「前もって知っておられた者たち」とか20節の「あらかじめ定められた者たち」という書き方がなされると、私のことではないと思われるかもしれませんが、そうではありません。

すべての人は神によって創造された最高傑作であり、特別な意味のある存在、かけがえのない一人ひとりなのです。そして、そのような神を愛する者に対して「万事が益となる」と語られるのです。

【共に働く】

万事が益となるために「共に働く」ということが付け加えられています。ここで語られる「共に」というのは、いったい誰とのことを指しているのでしょうか。様々な対象を思い浮かべることができると思います。

福音書を通してイエスの姿を思い起こしてみたいと思います。イエスは神の国の福音を伝えるために、何をされたでしょうか。一人で神の国の福音を宣べ伝えたわけではありません。

初めにされたことは、弟子たちを招いたということです。イエスは神の国の福音とは無関係に思えるような漁師や徴税人に向かって「私についてきなさい」と声を掛けました。

有名な弟子としては12人の弟子たちがいましたが、それ以外にも福音書には名前が出てこない多くの弟子たちがいたと言われています。特に女性の弟子たちは、当時の慣習によって数に入れられなかったので、その存在も明らかにはされず、名前も出てこない人が多くいたはずなのです。

このようにイエスは弟子たちと共に働かれましたが、本当は一人でもできたかもしれません。かえって弟子たちは足手まといだったかもしれません。しかし、共に働いたのです。

なぜでしょうか。そこにはイエス誕生にまつわる預言の言葉が関係しています。マタイによる福音書1章23節にあるイザヤ書7章14節の預言は「その名をインマヌエルと呼ぶ」とあります。神が共にいてくれるということです。神の働きとは「共に」という働きなのです。

また、この世に教会を建てるためなのです。教会に必要なものとは何でしょうか。牧師がいなければという方もいますが、私たちのバプテスト教会において、牧師は必要不可欠なものではありません。牧師のいない教会もたくさんありますし、牧師を立てない教会もあるのです。キリストの体としての教会は、神を愛し、神に愛される者が集められた、信仰共同体なのです。

信仰共同体であるからこそ、誰か特別な人が働くのではなく、だれもが共に働く場なのです。

一人で自分勝手に働くのではなく、お互いの役割を認め、尊重し、働く時、万事が益となるのです。

【御子の姿】

続く29節には「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」とあります。

御子の姿に似るとはどういうことでしょうか。イエスの生涯を振り返ると「従順」という言葉が当てはまります。

幼い頃のイエスについて、聖書は断片的にしか語っていません。しかし、それらから推測すれば両親に従順に従っていたとおもわれます。

賛美歌の歌詞などにもありますが、イエスは両親に従順に従いましたが、ここに一つの落とし穴があります。それは、子どもが親に従順に従う姿を理想的なものとして見ようとすることです。イエスと両親との関係では、良いかもしれませんが、これを一般化する時、問題も起こってきます。

最近のニュースなどを見ていると、従ってはいけない親の例がたくさん出てきます。親もまた、自然に親になるのではなく、子どもとの関係の中で親になっていくのだと思います。従順に従えるような「親」なのかということも大切な点です。

聖書の中で「父なる神と子なるイエス」という構図や「父なる神と神の子としてのクリスチャン」という構図が出てきます。しかし、これらは聖書が書かれた時代的な背景の中に「家父長制」という限定的な慣習があったという事実を差し引いて考える必要があるのではないでしょうか。

無条件に従順に従うべき方は神だけなのです。イエスは神の国について宣べ伝える前、教会内でよく使われる言葉でいうならば、公生涯に入る直前、荒野でサタンの誘惑を受けました。

サタンの誘惑の中にあっても神に従順に従いました。ゲッセマネの園や十字架に架けられた時にも神の前に従順な姿勢をとられました。

このような御子の姿に似た者に対して、神はすべてを益に変えてくださるのです。

【万事が益】

さて、神が全てを益に変えてくださるということですが、私たちは時々、大きな思い違いをしてしまうことがあります。それは万事が益となることと、すべてが自分の思い通りになったり、自分にとって都合の良いように働くと思ったりしてしまうということです。

そのように思い違いをする時、私たちは「神は祈りを聞いてくれない」とか「神なんていない」と思ってしまうのです。

ここで語られている事柄の主体は神なのです。私たちが主体になって、神が私たちの奴隷のようになって、私たちの願いをかなえてくださるということではありません。

神が、その知恵と計画の中で最善の事柄を起こしてくださるということを忘れてはいけません。ですから、時には自分の思い通りにならないことが起こるのです。また、うまくいかずに失敗ではないかと思えることがあるのです。

なぜならば、私たちの価値観が、この世の価値観に染まってしまっているからなのです。神の価値観というものを身に着けるならば、それらが最終的には益に変えられるという出来事に出会うのです。

さらに、30節の最後には「義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」とあります。ここでも私たちは大きな勘違いをする可能性があります。

それは「栄光」という言葉からイメージするものを固定化してしまうということです。栄光を受けるということは、多くの人から称賛を浴びたり、輝かしい誉を受けることだと思っています。

教会の中でも「神に栄光あれ」と言って、神を賛美し、崇め奉ることがあります。もちろん、それらが間違いだというのではありません。しかし、それだけが聖書の語る「栄光」なのでしょうか。

聖書の語る究極の「栄光」はイエスの十字架ではないでしょうか。そこには輝かしい誉も、人々の称賛もありません。そこにあるのは神に見捨てられた小羊としてのイエスの姿です。

十字架から降りることができたとしたなら、それは万事が益となる出来事だったのでしょうか。そうではありません。十字架の上のイエスこそが栄光の姿であり、万事が益とされた事実なのです。

讃 美   新生554 イエスに導かれ
主の晩餐
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏