前 奏
招 詞   イザヤ書26章10節
讃 美   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
讃 美   新生296 十字架のイエスを仰ぎ見れば
主の祈り
讃 美   新生445 心静め語れ主と
聖 書   ローマの信徒への手紙8章31~39節
                      (新共同訳聖書 新約P285)

「神が味方です」                 ローマの信徒への手紙8章31~39節

宣教者:富田愛世牧師

【私の願いは?】

 先週は平和を覚える日の礼拝として、特別な時を持ちましたが、8月という月は、多くの人々にとって特別な時だと思っています。ただし、この特別な思いという点においては、それぞれの国によっては受け止め方が違うのだろうと思います。

日本では「敗戦」という文脈から、悲しみや二度と戦争を起こしてはいけないという反省の思いが強いでしょうが、中国や韓国、東南アジア諸国においては「解放」という文脈から、喜びのような感情が強いのではないかと思います。

いずれにしても、この時だからこそ、願う思いというものがあるわけです。そして、共通する願いというものが「平和」という事ではないかと思っていましたが、そうでもないようです。

人類共通の願いは「平和」だと思い、確認のためにネットで調べてみました。いろいろなランキングがありましたが、興味深いものとして初詣の願い事ランキングというものがありました。それを見ると、①健康祈願、②恋愛成就祈願、③安産祈願、④当選祈願、⑤就職祈願となっていました。ついでに七夕も調べてみました。こちらは①健康、②仕事、③お金、④恋愛、結婚、⑤平和ということで、神社仏閣での願い事のランキングには「平和」は出てきませんが、七夕では第5位にランクされていました。

これらが何を意味しているのかは分かりませんが、個人主義的な側面が強くなっているのかもしれません。そして、それぞれが置かれている状況の中で、平穏な生活を願っていることは間違いないことだと思います。

しかし、現実を見るならば、事の大小はありますが、いつも波風が立っているのです。また、ある時は目の前に壁が立ちはだかることもありますし、自分が成し得ようとすることに対して、反対するものが現れることもあります。そして、そのようなものを私たちは「敵」とみなすのです。

パウロは31節で「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と問いかけています。神が味方になってくれるのだから、誰も敵にはなりませんと語るのです。にもかかわらず私たちは「しかし」と言って敵を作ってしまい、平穏な生活をおくることが出来なくなってしまうのではないでしょうか。

【裁判】

続く33~34節は裁判に使われるような言葉が用いられ、それぞれに「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」と語り、誰が訴えるのか、そして、誰が裁くのか、つまり、誰が裁判官になるのかと問いかけているのです。

33節では「神に選ばれた者」つまり、神によって「義」とされる者がいるのです。神によって「義」と認められたのならば、誰がその人を訴えることができるのでしょうか。

神以外に人を「義」と認めるお方はおられません。

さらに34節では「義」と認められた私たちを「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」と語っています。「義」と認められている者を「罪に定める」のならば、どのような罪を犯しているのか、その証拠を示す必要があるのです。

しかし、続く個所では「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」とあるのです。

神が裁判官であるならば、裁判官である神が、私たちを「義」と認めている。つまり、私たちは「義」であると判決を下されたというのです。神という裁判官が判決を下したのなら、それを覆すことはできません。

さらに、キリスト・イエスが執り成してくださるという事は、キリスト・イエスが弁護人となってくださるという事ではないでしょうか。

「義」と認められ、さらに弁護人として、キリスト・イエスが私たちを弁護してくださるのです。徹底的に私たちを守ってくださるのです。

【苦難、迫害、死】

続く35節では「だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう」と問いかけます。「だれが」と語っているので、「誰か」が私たちをキリストの愛から引き離すと考えるのかもしれませんが、キリストよりも私たちのことを愛している人を、私は知りません。

ところが、ここでもまた、私たちは「しかし」といって敵を作ってしまうことがあるのです。そこでは「人」が私たちをキリストの愛から引き離すのではなく、事柄によって、私たちがキリストの愛から離れてしまうことがあるという仮説を立てようとするのです。

その敵は「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」と言われます。これらは実際にパウロが受けた迫害、災難だと考えられています。

コリントの信徒への手紙第二11章16節からの小見出しに「使徒としてのパウロの労苦」と書かれています。パウロは宣教活動を行う上で様々な労苦を味わってきました。特に24節からは、具体的なことが書かれています。

「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」と書かれています。

また、ここには7つの敵が出てきます。7という数字は聖書においては完全数と考えられています。つまり、ここで語られるのは、あらゆる敵を想定しているという事なのです。

そして、キリストの愛からパウロを引き離そうとする、究極的な敵が「死」なのです。

しかし、その「死」すらキリストの愛から私たちを引き離すことはできません。

【神が味方】

なぜでしょうか。それは最初に書いてあるように、「もし神がわたしたちの味方であるならば」ということなのです。

ここには、神と私たち信仰者との間に入り込むことのできるものは何もないという事が前提になっているのです。一度古い自分に死んで新しく生かされた私たちは、もはや神に対立することはできないという事が前提になっているのです。

それでは、神が私たちの味方であるという事ですが、味方とは何でしょうか。あなたの味方は誰ですかと尋ねられて、即答できる方はいるでしょうか。

私は大河ドラマが好きで、よく見ているのですが、その中でも戦国時代のものが好きなのです。何が面白いかというと、人々の関係性、駆け引きがとても興味深くて、感情移入して見てしまいます。

そのようなドラマの中で、時々「私はあなたの味方です」などというセリフが出てきます。味方であるという事は、私たちが弱い時にも、強い時にも、どんな時にも私たちをかばい、私たちを正しいと認めてくれる方だと思うのです。

ところがドラマを見ていると、そんな味方だと思っていた人がコロッと裏切ってしまうことがあります。「大義がある」などと言い訳をしたりしますが、結局のところは自分であったり、家であったりという身内に火の粉がかからないようにするために寝返ってしまうわけです。

しかし、神にはそのようなことはできません。神は裏切らないのです。なぜなら神の正しさは絶対的なものだからです。相対的に見れば「正しさ」は時と場合によって変わることがあります。

しかし、神の正しさは変わらないものなのです。なぜなら、正しいから神なのではなく、神だから正しいのです。すべての基準なのです。

そのようなお方が味方となってくださると言うのですから、何も恐れる必要はないのです。

讃 美   新生538 神はわがやぐら
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏