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「選ばれた者」 ローマの信徒への手紙9章1~5節
宣教者:富田愛世牧師
【神の約束】
今日から9章に入りますが、ローマの信徒への手紙にはテーマ毎にいくつかの区切り方があります。代表的なものとしては、NTDという注解書があり、それには一部が1~8章で「救いに至らせる神の力としての福音」、二部が9~11章で「神の義とイスラエルの運命」、三部が12~15章で「キリストの者たちへの生活訓」となっています。もちろん1章の前半は「挨拶」、また、15章後半から16章にかけては「最後の挨拶」になっています。
また、もう一つ伝統的なものとしてスウェーデンの神学者で二―グレンという人がいて、この方の書いた注解書では一部が1~4章で「信仰による義人」、二部が5~8章で「信仰による義人は生きる」、三部が9~11章で「信仰の義は神の約束に対立しない」、四部が12~15章で「信仰による義人の生涯」となっています。
なぜこのような話をしたのかというと、今日から読み始める9章からは、今までのところと少しテーマがずれているという事なのです。
ローマの信徒への手紙ということですから、手紙の受取人の多くは異邦人クリスチャンだったと思われます。ですから、異邦人の救いという事を中心テーマにしている1~8章までの流れで良かったのではないかと思います。
しかし、あえてパウロは9~11章でユダヤ人の救いに触れているのです。なぜなら、ローマで教会を作った最初の何人かはユダヤ人だと思われるからです。ローマに限らず、小アジアからギリシアに作られた初期の教会はディアスポラと呼ばれる、離散したユダヤ人によって作られたと考えても間違いではないと思います。
彼らは、キリストの福音によって律法主義から解放され、本当の救いを経験していましたが、時の経過と共に以前の習慣に戻りそうになるという事は容易に考えられることだと思うのです。
二―グレンという神学者はこの第三部のテーマとして「信仰の義は神の約束に対立しない」と書いています。神の約束とは、ユダヤ人を特別に選び、神の救いの業をユダヤ人を用いて広めようとした、その神の約束と異邦人にキリストの福音が伝えられ、異邦人によって福音が世界中に広められるという現実は、相反することではなく、それも神の計画だという事なのです。
【パウロの悲しみ】
まず1節でパウロは「キリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない」と宣言します。わざわざこのようなことを言うと、過去において偽りを語ったことがあるのかと思ってしまうかもしれませんが、そういうことではありません。
ここで思いを新たにして、自分の中にある思いをはっきりとさせようとしているのです。そういう意味で、偽りではない真実の思いを語ると宣言するのです。
さらに「わたしの良心も聖霊によって証ししている」と語り、これから語ることの真実性を強調するのです。
続く2節で「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」と語ります。パウロの心の中にある「深い悲しみ」とは何なのでしょうか。
ここでは直接的な書き方はされていませんが、この後11章までの内容からすれば、ユダヤ人の多くがキリストの福音につまずき、信じようとしないという現実に対して「深い悲しみ」を抱いているのです。
パウロ自身がユダヤ人であり、キリストに出会う前は、ユダヤ教の熱心な信奉者であったという事実は消すことができません。そして、パウロはその熱心さのあまり、クリスチャンを迫害するようになり、ダマスコまで行って「その道の者を縛り上げようとした」わけです。
その途中、突然、復活のイエスに出会い、パウロの心の奥底にずっと流れていた疑問、律法厳守だけでは埋めることのできない、ぽっかりと開いた穴がイエスに出会うことによって解決し、埋められたのです。
この福音による解放感、そして、喜びを、同じような悩み、苦しみを抱えている同胞にも味わって欲しかったのです。しかし、以前の自分と同じようにかたくなに心を閉ざしてしまっている、そのような同胞の姿が悲しくて仕方なかったのではないでしょうか。
【パウロの覚悟】
3節でパウロは思い切った発言をしています。「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」と語ります。
冷静に見ていくならば「キリストから離され、神から見捨てられた者」となったとするなら、元も子もなくなってしまう訳です。つまり、この発言には、パウロの覚悟が込められているという事なのです。
フィリピの信徒への手紙3章5~6節を見ると「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」と語っています。
先ほども語ったように、パウロは生粋のユダヤ人だったのです。そして、「兄弟たち、つまり肉による同胞」のためにはどんなことでもしようとしているのです。ただ、パウロが「兄弟」と語る時、多くの場合は、キリストにある兄弟、つまり、クリスチャンのことを指すわけです。
しかし、ここでは、その後に「つまり肉による同胞」と語るように、キリストの福音を、以前の自分と同じように拒否し、律法に踏み留まっているユダヤ人を指しているのです。
4節から5節の途中までを見ると「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです」とあります。
ユダヤ人、つまり、イスラエルの民は、神の子として選ばれた者たちであり、神から特別な特権を与えられていたという事実を確認しているのです。しかし、残念なことに、これらの特権、神に選ばれたという事実は、キリストの福音に照らすならば、過去の出来事であり、その歴史を振り返るだけでなく、これからの歩みを考える時、そこには悔い改めが必要になってくるのです。
【キリストは神】
パウロはここでイエスについても「肉によればキリストも彼らから出られたのです」と語ります。
福音書に記録されているイエスの言葉を見ていく時、誰に向かって福音を語っていたでしょうか。まさに「ユダヤ人」に向かって、福音を語っていたのです。正確に言うならば、ガリラヤに生き、社会的な最底辺にいた「仲間」に向かってイエスは語っていたと思われます。
そこで、人々はイエスの語る福音を聴き、イエスに従いました。その背景には、エルサレムという中央から見るならば、辺境の地であり、エルサレムの宗教指導者、祭司や律法学者たちから見るならば、律法を守ることのできない不信仰な者たちだったという現実があったのではないでしょうか。
パウロは、イエスも同胞に向かって福音を語っていたという事実を大切にしたいと考えていたのです。しかし、以前の自分と同じように、宗教的エリートたちはイエスの語る福音を受け入れませんでした。愚かな戯言だとバカにしていたのです。
彼らの心の中には、選ばれているという特権意識、選民意識があったのです。そして、自分は律法を守っている。神から義と認められているという大きな勘違いをしていたのです。
今でも「私は正しい」「私は愛を持っている」と思い込んでいる人にとっては、イエスの語る福音は愚かなものに聞こえるのではないでしょうか。金持ちの青年のように「そういうことはみな守ってきました」と言い切る時、私たちはイエスの言葉を、福音を拒絶していることになるのです。
そのような私たちに対して、そして、過去の自分に対して、パウロは語りかけるのです。そして、最後のところで「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」と締めくくるのです。
パウロはこの手紙を書きながら突然、このように告白しているのです。そこには、手紙を書きながら自分に起こった救いと解放の業を思い起こし、感極まっている姿を想像することができるのです。
讃 美 新生661 聞け主のみ声を 献 金 頌 栄 新生671 ものみなたたえよ(A) 祝 祷 後 奏