前 奏
招 詞   エゼキエル書11章19~20節
讃 美   新生  3 あがめまつれうるわしき主
開会の祈り
讃 美   新生 41 いとも慕わしきイエスの思い
主の祈り
讃 美   新生 75 陽昇り 朝に目覚め
聖 書   ローマの信徒への手紙9章6~13節
                    (新共同訳聖書 新約P286)

「約束の言葉」                   ローマの信徒への手紙9章6~13節

宣教者:富田愛世牧師

【自発的な・・・】

 今、ローマの信徒への手紙9章6節から読んでいただきましたが、この6節は「ところで」という言葉で始まっています。つまり、少し話題を変えて次の点について見てみましょう。という話題の転換です。

どのようなことを語ろうとしているのかというと、「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」ということです。

この発言の背景には、イスラエルの民の現実というものがあります。イスラエルの民は神に選ばれたはずであるにも関わらず、キリストの福音、救いを受け入れていないという事です。

パウロは「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず」と語っています。さらに7節では「アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない」とも語っています。

この6節にある「イスラエル」という言葉はイスラエル民族と訳せる言葉が用いられていて、7節は「イスラエル人」という言葉が用いられているのです。

血の繋がりがあるから、血統としてイスラエル民族の血が流れているからといって、それらすべての人がアブラハムの子孫だということではないというのです。

多くのイスラエル人は、自動的に自分はアブラハムの子孫だと思い込んでいたようですが、パウロは神を信じ、神に義と認められなければ、アブラハムの子孫だと名乗ることはできないと語るのです。

これは私たちの関係性全般にも言えることだと思います。結婚すれば自動的に夫婦となるのではありません。お互いの関わりの中で夫婦になるのです。親子関係でも同じです。子どもが生まれれば、自動的に親になるのではなく、子どもとの関わりの中で、親へと成長させられていくのです。

つまり、イスラエル人であるとか、アブラハムの子孫であるということは、自然に、自動的にそうなるのではなく、神と向き合い、神との関係の中で、自発的に信仰を告白しなければ、その関係性を作り上げることはできないのです。

【アブラハムの子孫】

7節の後半には「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と書かれ、族長物語と呼ばれる、イスラエルのルーツにまで遡っていきます。

アブラハムには子どもがありませんでした。現代において、このようなことを語るならば差別的な発言になってしまいますが、当時の慣習の中では、子どもが与えられることは神からの祝福でした。しかし、アブラハムには子どもが与えられなかったのです。

創世記15章には、アブラハムが神から義と認められた経緯が記録されています。ある日、主の言葉が幻の中でアブラハムに臨みました。その中で、神があなたとその子孫に祝福を与えると約束するのです。ところが、アブラハムには子どもがいませんでした。

しかし、神はそのような現実を気にしていないかのように「あなたから生まれる者が後を継ぐ」と語り、続けて「あなたの子孫はこのようになる」といって天の星を見せられました。この言葉を信じたことによってアブラハムは神から義と認められたのです。

アブラハムは神の言葉を信じながらも、現実に目を向けた時、妻サライに仕えている女奴隷によってイシュマエルを授かるのです。その13年後、アブラハムが99歳の時、もう一度、神の言葉が望みました。そして、百歳になった時、妻サライによってイサクが与えられたのです。

8節には「肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです」とあります。アブラハムには肉による子どもは与えられませんでした。もちろん女奴隷ハガルによってイシュマエルが与えられるわけですが、それは跡継ぎではありませんでした。

ここで大切なのは「約束によって生まれる子ども」ということなのです。肉による子どもはありませんでしたが、「約束」が与えられました。神の約束を信じたからイサクが与えられたのです。

イサクの登場によってイシュマエルへの注目度が薄れてしまいますが、イシュマエルに対しても神の御手は差し伸べられ、守られていくということは忘れてはいけないことだと思います。

ただ、ここでの話の中心は「神の約束」ということです。約束を信じるのか、それとも疑うのかということは大切な点で、人間の常識では不可能だと思えることに対しても、神の約束は成就すると信じる時、私たちは「義」と認められるようになるのです。

【ヤコブとエサウ】

さらにイサクの子どもたちにも話題が進んでいきます。イサクにはエサウとヤコブという双子の息子が与えられました。ここにも神の約束が働いているのです。

エサウとヤコブの物語を読む時、どちらが神に愛されているのかとか、どちらが優れているのかといったような「比較」という物差しを持って、読んでしまうことが多いのではないかと思います。

しかし、何度も言うように、ここで大切なことは「約束」だということです。

エサウとヤコブのそれぞれの人生というものは、生まれる前から決まっていました。創世記25章23節にイサクの妻、リベカへの神の言葉が記録されています。そこには「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり 兄が弟に仕えるようになる」と書かれています。

しかし、いざ生まれると当然のように父であるイサクは長男のエサウを愛したのです。先ほどの神からの言葉をリベカがイサクに話したかどうかは分かりません。ですから、イサクは神の約束を破ってエサウを愛したのではないと思います。

イサクはなぜ長男エサウを愛したのか。それは長男だからですが、他にも理由があったようです。それは「エサウは巧みな狩人で野の人」だったからです。つまり、男らしく、勇ましい狩人に成長したからなのです。

一方ヤコブはというと「穏やかで天幕の周りで働くのを常とした」とあります。男のくせに、男らしくないし、天幕の周りで働くということは、現代的に理解すれば「家事手伝い」をしていたということです。

家父長制の社会にあって、イサクは絵にかいたような家長としての役割を担っていたし、二人の息子たちは対照的な性格だったようです。

この後、話の流れの中でイサクの妻リベカは、ずる賢く立ち回り、ヤコブに長子の権利を奪い取るように仕向けるのですが、男らしくない、女々しいヤコブの姿をずる賢さの中に植え付けようとしているのではないかと思わされてしまいます。

【約束】

パウロはイスラエルの族長物語から、神の約束について語っているわけですが、ここには当時の常識というものが色濃く出てきているのです。

それは、イスラエル=神の選びの民=救われるべき者

家の主=男=長男 男はこうあるべき、そして、女は男に従うものである。という、当時の理想の家庭の姿、形があるのです。

私たちが当時の常識や慣習、そして民族的な伝統というものを大切にしたとするならば、アブラハムはどのような人生を送ったでしょうか。妻であるサライに子どもが出来なかった場合、離縁して別の妻をめとり、後継ぎを作るのが、当たり前のことだったと思われます。もしそのような常識的な人生をおくろうとするなら、別の妻によって跡継ぎが出来て、そこで終わりとなるのです。

イサクの人生も同じです。エサウとヤコブという二人の兄弟がいたわけで、当然のように父であるイサクは長男エサウを愛しました。そして、当時の常識で考えるならば、長男エサウが跡継ぎとなったとすれば、この物語はそこで終わりになるのです。

神が介入し「約束」を与えない歴史というのは、このように終わっていくものなのです。しかし、神が介入し、人の常識を遥かに超えるような、信じられないような「約束」が与えられるならば、その歴史が劇的に変えられてしまうのです。

そして、神によって変えられた歴史は、その後もずっと続いていくのです。なぜなら、神は、その「約束」に対して責任をもって、成し遂げてくださるからなのです。

また、神の「約束」は人の常識を覆してしまうものなのです。そこには、血縁よりも大切なものがあるのです。家父長制という社会構造の中での家族としての関係性や男性優位といったものがあった時代ですが、神の前には何の意味もなかったのです。

そして、そこに登場する女性たちについて見るならば、虐げられていたからこそ、そこに神がスポットライトを当てられたのです。彼女たちの働きがなければ、聖書の物語は成立しなかったのです。それも神の「約束」だったのです。

讃 美   新生344 聖なるみ霊よ
主の晩餐
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏