前 奏
招 詞   歴代誌下19章7節
讃 美   新生  3 あがめまつれうるわしき主
開会の祈り
讃 美   新生 496 命のもとなる
主の祈り
讃 美   新生132 主よ おことばをください
聖 書   ローマの信徒への手紙9章14~18節
                 (新共同訳聖書 新約P286)

宣 教   「気ままな神」                 富田愛世牧師     

【神は不公平?】
 今日は14節から読んでいただきましたが6節以降に書かれている内容の続きになっていますので、思い出しながら見ていきたいと思っています。

13節までの所で、神は約束を守られたということが語られていました。その約束とはアブラハムに対して、常識的には到底信じることのできないようなものでした。常識的には信じられないけれど、その約束が守られれば、それはアブラハムにとって何にも代えがたいような祝福でした。

その約束は老齢に達していたアブラハムとサラに子どもが与えられるというものでした。常識的には信じられませんが、神の言葉なのでアブラハムはそれを信じました。そして、信じたことによって神から義と認められ、子々孫々にいたる祝福を得たのです。

このアブラハムに対する約束と祝福によって、アブラハムの子孫であるイスラエルは神から選ばれた民となり、神の祝福を受け継ぐ民族となったのです。

この約束は神からの一方的な約束でした。今日の13節を見ると「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあります。この言葉はマラキ書の言葉を引用したものです。マラキ書の背景にはイスラエル人とエドム人の争いがありました。エドム人の祖先はエサウだと考えられていますので、このような言葉が記録されているのです。

しかし、「エサウを憎んだ」などという言葉が神の口から出るなどと考えられないのが私たちの神に対する見方なのではないでしょうか。これも神の約束から出た言葉だとするなら、できれば、ここだけ黒塗りにしたいと思ってしまわないでしょうか。

このように書かれているから、パウロは「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか」と語るのです。神は不公平ではないかと思ってしまうのです。

一方を愛し、他方を憎む等ということは正しいことではない。神なのだから両方を同じように愛さなければならない。神は不公平であってはいけない。公平であるべきだと考えてしまうのではないでしょうか。

【神のイメージ】
しかし、そのように見てしまうのは、私たちの勝手な神イメージなのではないでしょうか。

私たちが勝手な神イメージを持つことと同じように、愛するとか憎むという言葉に対するイメージも、もしかすると勝手なものをイメージしているのではないかと思うのです。

聖書の語る「愛」とは、どのような概念なのでしょうか。簡単に答えの出るようなものではないと思います。しかし、愛の対義語が何かを知ることによって、本質を知ることもできると思うのです。

「愛」の対義語として、マザー・テレサの言葉がとても有名です。ご存じの方も多いと思いますが「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」と語られました。マザー・テレサの生き方を見ると本当にその通りだと思います。そこから私は愛とは関係だと理解するようになりました。

神の愛という文脈の中で考えるなら「憎む」という愛し方もあるのではないかと思うのです。エサウに対して無関心でいたり、その存在を認めないのではありません。神の計画の中でヤコブが選ばれ、エサウが選ばれなかった。しかし、選ばれなかったとしても見捨てられたのではないのです。

もちろん、ここで神がそのように愛されるのかは分かりません。しかし、人間の愛し方についていうなら、そのような愛し方もあると思うのです。

神だから、このように愛すはずだという決めつけは、もうやめなければならないのです。神は、神なのだから、神の愛し方があるのです。私たちのイメージを押し付けるのではなく、神の愛し方を知ることによって、私たちの愛し方も豊かにされていくのではないでしょうか。

初めに言った「神のイメージ」も同じなのです。こういうイメージの神ではなく、聖書に書かれている神のイメージが神なのです。そして、そのイメージは一つではありません。聖書を通して、神の多様なイメージを見ていくことによって、神の豊かさを知ることができるのです。

【主導権】
次に15節を見ると「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と書かれています。この言葉は出エジプト記33章19節を引用したものです。

モーセとイスラエルの民はエジプトを脱出し、シナイ山で十戒を授けられます。しかし、イスラエルの民は、モーセがなかなかシナイ山から降りてこないので、不安になりアロンに詰め寄って金の子牛の像を作らせました。その時、モーセが山から下りてきて、偶像の周りで踊り狂っている民を見て、怒りのあまり、神から預かった十戒の書いてある石板をたたき割ってしまいました。

モーセとイスラエルの民は、神の前に嘆き、悔い改めました。そして、もう一度、モーセが「どうか、あなたの栄光をお示しください」と訴えた時「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」という答えが主から降りてきたのです。

人の思いが優先するのではありません。神が全てにおいて優先的に主導するということを覚えておかなければならないのです。これが神の姿で良いのではないでしょうか。

私たちは、すぐに自分の都合に神が合わせてくれるのではないかと思い違いをしてしまうのです。しかし、神が私たちに合わせるのではありません。私たちが神に従わなければならないのです。

16節を見ると「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」とあるように、主導権は神にあるのです。そして、神はその主導権を強権的に用いるのではなく、憐れみという文脈の中で用いられるのです。

憐れみによって導かれる時、神は神の大きな計画の中で、一つひとつの事柄を最善の方法で進めていかれるのではないでしょうか。

【気ままな神】
17節では、また出エジプト記9章16節を引用し「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と語ります。

出エジプトの出来事は神の計画でした。であるならば、ファラオの心を動かし、初めから簡単にイスラエルの民がエジプトから脱出することが出来るようにすれば良かったのでしょうか。

しかし、神はファラオの心をかたくなにされました。そして、簡単にエジプトを脱出することができるようにはなさいませんでした。

なぜなのでしょうか。その理由は神にしか分からないことでしょう。しかし、大切なことは神の思い、神の計画なのです。

神の思い、神の計画は人の都合に合わせてくれるようなものではないのです。神は神の思いの中で、気ままにふるまうことが出来るのです。誰もそれを止めることなどできません。

ただ、「なぜ?」と尋ねることは許されているのです。だから私たちは尋ねれば良いのです。尋ねるならば、神は答えてくれるはずです。ただし、ここでも神には答える義務はありません。義務はないけれど、神はその憐れみによって答えてくださるのです。それはいつでしょうか。今でしょ!ではないのです。その答えのために私たちは忍耐しなければならない時もあるのです。

もちろん、今でしょ!ということもあるでしょうが、忍耐によって私たちは人間として成長し、豊かな感性を手に入れることができるのです。

18節を見ると「このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」とあります。

もちろん、神は私たち人間を愛してくださいます。しかし、愛されているからと言って、甘えすぎたり、わがままを通そうとするなら、それは間違いなのです。

神の気ままさとは愛と憐れみという文脈の中で私たちに関わり続けてくださるのです。今までを振り返って、それを実感し、今もその関係の中に生かされ、これからも共に歩み、関わり続けてくださるのです。

讃 美   新生576 共に集い
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏