前 奏
招 詞   ヨブ記33章13~14節
讃 美   新生  3 あがめまつれうるわしき主
開会の祈り
讃 美   新生497 イエスさまは心のともだち
主の祈り
讃 美   新生541 主は招きたもう
聖 書   ローマの信徒への手紙9章19~29節
                   (新共同訳聖書 新約P287)

「相反する思い」                 宣教者:富田愛世牧師

【深い悲しみ】
 パウロは9章に入ってから、自分には深い悲しみと心に痛みがあると告白しています。その悲しみ、心の痛みとは、自分の同胞であるユダヤ人がキリストの福音を拒絶し、神が用意しておられる救いに入ることが出来ないということです。

なぜ、ユダヤ人はキリストの福音を信じないのでしょうか。また、その責任はどこに、誰にあるのでしょうか。神はすべてを、その計画の中で進めているはずです。だとしたら、なぜユダヤ人の心をかたくなにしてしまうのでしょうか。

全能の神なのだから、ユダヤ人の心を動かして、律法から解放し、イエスの語る福音を受け入れ、救われるようにしてくれれば良いのにと考えるかもしれないが、神の計画はそのようなものではありませんでした。

19節を見ると「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」とあなたがたは言うが、その考え方は間違っているとパウロは語っているのです。

ここで「あなたがたは言うでしょう」となっているので、誰かがパウロに「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか」と質問してきたように感じますが、この質問は特定の誰かがパウロに質問したということではなく、パウロが、このような質問が来た時にはこう答えようという、仮定の問いと答えです。

続く20節で「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」とあります。造られた者が、造った者に対して、「どうしてわたしをこのように造ったのか」ということができるのかと厳しく語っています。

「神に口答えする」という言葉から何か思い出しませんか。私はヨブ記に書かれている、ヨブと神との対話を思い起こします。ヨブは自分は何も悪いことをしていないのに、なぜこんな不幸に見舞われなければならないのかと神に問いかけます。そして、最終的には神の全能性を認め、悔い改める訳ですが、今、ここで詳しくお話しすることは時間の都合上できません。ただ、人は神の前に自分の正しさを主張しようとするけれど、主張したことによって自分の愚かさに気付かされてしまうのではないでしょうか。

【陶器師のたとえ】
次にパウロは陶器師が焼き物を造る時のことをたとえにして説明しようとしています。20節の後半には「造られた物が造った者に『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか」とあります。

元々、陶器には口がないし、生命体ではありませんから、考えることもないのになどと思ってしまいますが、そういう意味ではなく、ものの例えとしてパウロは話題を展開しているわけで、造られたものは、造った者に対して、このように造ってくれと注文することなど有り得ないわけです。

21節を見ると、そのことをさらに展開して「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器にし、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるではないか」と語っています。

同じような器を造っても、一方は貴いことに用いるために造り、他方は貴くないことに用いるために造るということがあるし、それは陶器師の自由であるというのです。

さらにそれを用いる人がいたとするなら、その人がどのように用いるかは作者にも計り知れないことなのかなと、個人的に話を膨らませてしまいましたが、それは私の頭の中だけにしておきます。

次の22節は「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが」とありますが、19節からの小見出しには「神の怒りと憐れみ」と書かれています。神は神に逆らう者に対して怒りを示して、その者たちを滅ぼすこともできるのです。しかし、神の中には「怒り」だけでなく憐れみの心もあるのです。

22節の続きには「怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば」とあります。その憐れみのゆえに、滅ぼそうとする思いをとどまらせ、そのような者たちを用いることもできるのです。

そして、23節では「憐れみの器」として、究極的な救いに入れられる人々の存在を示しながら、24節では「異邦人の中からも召し出してくださいました」と語り、民族的な違いや選民意識的なものは関係なく、神の救いの業が進められていることを確認しようとしているのです。

【選ばれない者が選ばれる】
次に25節からの展開で、パウロはヘブル語聖書にあるホセア書を思い起こして語ります。ホセア書は14章までの比較的小さな預言書です。しかし、とても特徴のある預言書なのです。

ホセアという預言者は北イスラエル王国の預言者として、ただ一人だけ聖書に登場しています。

パウロがなぜ、ホセア書を思い起こしているのかというと、ユダヤ人と神との関係が預言書で語られるものと非常に似ているからなのです。

預言者ホセアには妻がいましたが、その妻は姦淫の罪を犯してしまうのです。現代的に言えば不倫をして、夫であるホセアの元から出て行ってしまうのです。しかし、その不倫相手にも捨てられ、奴隷にまで身を持ち崩してしまうのです。そのような妻を奴隷から買い戻すように神に命じられるのです。

不倫相手との間には二人の子どもがいました。最初の子にはル・ハルマ、その意味は「憐れまれない者」という名がつけられました。次の子にはロ・アンミ、その意味は「わが民でない者」という名がつけられました。

このような預言者ホセアの家庭に起こった出来事を通して、裏切り続ける妻をイスラエル、ユダヤ人に見立て、自分の子ではない者を異邦人に見立て、それぞれを妻として、また、子どもとして迎え入れる神の憐れみを、改めて知るのです。

そして、ホセアという預言者が預言したことが、今、パウロが置かれている場において成就したと考えているのです。こうしてパウロは、神が決してユダヤ人を見捨てないということ、また、異邦人に向かっては、選ばれるはずではなかった者かもしれませんが、彼らを選びに加えられたということを確信したのです。

【残りの者】
次にパウロはイザヤ書から語ります。27節に「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる」とあるのです。

この預言の背景には北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされ、さらに南ユダ王国も国土のほとんどが占領され、かろうじてエルサレムだけが残されるという歴史上の事実がありました。

イザヤはこの出来事を北イスラエル王国と南ユダ王国の背信行為に対する神の罰だと解釈しました。しかし、神は南ユダ王国を滅ぼし尽くすことをせず、一部を残されたのです。それが「残りの者」であり、イスラエル回復の希望となっていたのです。

イスラエルはアブラハムに対する神の約束のゆえに、海辺の砂のように増えました。しかし、キリストの福音を信じる者は「残りの者」と呼ばれるくらいの少数者でした。しかし、救いはあるのです。

人間的な価値観から少数という時、そこに希望を見ることは難しいかもしれません。しかし、預言者は「残りの者」と呼ばれる少数の人々こそが希望であると語るのです。

29節の後半に「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら」とあるように、「残りの者」が残されているのです。ここに「ソドム」と「ゴモラ」という族長時代に栄えた町の名前が出てきます。これらの町は腐敗と堕落の象徴で、滅びを意味しているのです。

「残りの者」がいなかったとしたならば、イスラエルという民族は滅びていたというのです。そして、今はローマにいるユダヤ人の中に少数であっても「残りの者」と呼ばれるユダ人クリスチャンがいることによって、神からの希望を見ていくことができるのです。

そして、28節を見ると「完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる」とあるように、神は必ず救いの業を成し遂げてくださるのです。


讃 美   新生508 あまつ喜び(A)
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏