前 奏
招 詞   イザヤ書51章1節
讃 美   新生  3 あがめまつれうるわしき主
開会の祈り
讃 美   新生131 イエスのみことばは
主の祈り
讃 美   新生488 主よ今この身を
聖 書   ローマの信徒への手紙9章30~10章4節
                      (新共同訳聖書 新約P287)
宣 教   「修行ではなく」                 宣教者:富田愛世牧師
【異邦人の救い】
 パウロはこの9章に入ってから「ところで」とか「では、どういうことになるのか」といった言い方をして、話題を少しずつ変えていますが、基本的には同じような内容を、視点を変えて話しているように感じます。
 今読んでいただいた9章30節も「では、どういうことになるのか」という出だしで話題を変えています。ここでは、選ばれるはずの者が選ばれず、選ばれるはずのない者が選ばれるということに対して「では、どういうことになるのか」と疑問を投げかけながら、視点を変えた話題に移ろうとしているように感じます。
 ユダヤ人の一般常識に照らし合わせるならば、自分たちユダヤ人を差し置いて異邦人が救いに入るなどということは、あり得ない出来事でした。理不尽極まりないことなのです。
 ですから、救われる前のパウロのように「その道の者」と言って、イエスの福音を信じる者たちを迫害するようになったのではないでしょうか。
 しかし、イエスの語る福音を信じ、そこに神の真理があると気付いたパウロにとっては、律法の行いを頼りにすることが、いかに愚かであったかということが身に染みていたのです。ですから、必死になって神から義と認められることの解放感、喜びを伝えようとしているのです。
 パウロはローマの信徒への手紙の前半、1章から3章にかけて、義と認められることについて詳しく語ってきました。そこにはユダヤ人も異邦人も区別なく「人は律法の行いによるのではなく、信仰によって義とされる」と語ってきたのです。
 ですから、「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」と語るのです。
 「求めなかった者が得、求めた者が得ることができなかった」と言われると何となく理不尽な感じがしますが、今言ったように「律法の行いによるのではなく、信仰によって義とされる」という事の方が理に適っているのです。

【つまずきの石】
 次に32節の後半では「つまずきの石」について語り始めます。ユダヤ人たちはこの「つまずきの石」につまずいたというのです。
 この「つまずきの石」とは何を指しているのでしょうか。それはもちろんイエスのことですが、パウロは33節でイザヤ書の言葉を引用して、それを説明しようとしています。ただ、当時、パウロたちが読んでいた聖書はヘブライ語からギリシア語に訳された「七十人訳」と呼ばれる聖書だったので、今私たちが持っている「旧約聖書」の言葉とは若干違っています。
 また、パウロが手紙の中で用いる場合には、自分の解釈が入っているのではないかと思われます。
この33節の引用は、イザヤ書28章16節の言葉で、
「それゆえ、主なる神はこう言われる。『わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石
 堅く据えられた礎の、尊い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。』」と書かれています。
 ところが、ここには「つまずきの石、妨げの岩」という重要な言葉は出てきません。同じイザヤ書 10章14節には、こう書かれています。
「主は聖所にとっては、つまずきの石 イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩」とあるのです。
 パウロは、イザヤ書28章16節にある「試みを経た石と貴い隅の石」という言葉を10章14節にある「つまずきの石、妨げの岩」に変えて、つまずきという事を強調しているのではないかと思われます。そして、イザヤ書の預言が、イエス・キリストによって成就したという事を語ろうとしているのです。
 イエスの語る福音をユダヤ人は「つまずきの石」として捉え、つまずいてしまったのです。しかし、異邦人はイエスの福音を受け入れました。なぜなら、律法を守っているという自負を持っていなかったからです。自分は正しいと主張する時、私たちはイエスにつまずいてしまうのです。

【熱心さ】
 次に10章1節で9章の2節以降で語ったことを繰り返しています。こちらの方が、少し軽い感じになってはいますが、パウロの気持ちは同じなのだろうと思います。
 そして、2節では「彼らが熱心に神に仕えていることを証しします」と語っています。ユダヤ人、とりわけパウロの属していたファリサイ派の人々の熱心さには定評があったと思います。
 パウロ自身が体験したことですから、それを証しすることは、やぶさかではなかったと思います。そして、心の底から、その熱心な姿勢というものを証ししたのです。
 しかし、2節の後半には「この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません」と語ります。彼らは熱心であった、けれども、その熱心さは間違った根拠に依るのだという事です。
 私たちの周りにも似たようなグループがあります。キリスト教の異端と言われていたグループの人々です。それぞれに特徴がありますが、その中の一つは、子どもを連れて熱心に、一軒一軒、家の玄関を叩きながら「御一緒に聖書を学びませんか」と尋ね歩く人々がいます。
 教会の中で、多くのクリスチャンは「彼らは熱心ですね」と言います。しかし、私は熱心だとは思えないのです。マインドコントロールされ、自らの意思で物事を判断できなくなっている状態にあるわけですから、熱心というのとはちょっと違うと思うのです。
 そういった勧誘活動をしなければ、神の祝福がもらえなくなり、永遠の滅びに落ちてしまうという恐怖感が植え付けられ、意識するかしないかに関わらず、一種の強迫観念からあのような行動に走っていると言われています。
 それに対して、ファリサイ派の人々の熱心さは律法を守ることに対する熱心さでした。それは父祖の代からの言い伝えでもあったのです。しかし、そのような行いが人の心を解放するわけではありません。パウロはそのような行いから、イエスの福音によって解放されたのです。
 熱心さの根拠が「恐れ」や「守る」ことだとすれば、どんなに熱心に行動したとしても終着点はないのではないでしょうか。それに対してパウロは、解放された「喜び」を根拠にして熱心に福音宣教の働きに勤しんだのです。

【自分の義】
 3節には「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」とあります。今、ユダヤ人の「熱心」さの根拠になっているものは「恐れ」や「守る」ことだと言いましたが、そのような思いの原点は、ここに書かれているように「神の義」ではなく「自分の義」に基づいていたというのです。
 自分の義という事ですから、自分たちで考え出したものの中に「義」があると思い込んでいたのです。それが言い伝えとしての律法だったのです。
 もちろん、本来の律法は神によって与えられたものですから、それが間違ったものだということではありません。しかし、この当時のユダヤ人が大切にしていたものは、巻物などに書き記された成文律法もあったはずですが、それ以上に父祖たちからの言い伝えとしての、口伝の律法だったのです。
 もし、ユダヤ人が聖書の言葉に立ち返り、聖書の言葉に従おうとしたのならば、「神の義」に従うことになったはずです。しかし、彼らが大切にしたのは、父祖たちからの言い伝えだったのです。
 4節を見ると「キリストは律法の目標であります」と語っています。イエスはマタイによる福音書5章17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と語っています。
 そして、パウロはガラテヤの信徒への手紙3章24節で「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです」と語っています。
 律法を厳格に守ってきたパウロは、律法を守り、行うことによって救いが得られると信じていました。しかし、いくら熱心に、厳格に守り、行ったところで心に平安を得ることができず、かえって「これでいいのだろうか」という不安に苛まれていたのではないかと思います。それらの不安を消すため、さらに熱心になり、クリスチャンを迫害していたのでしょう。
 そのようなパウロの前に復活のキリストが現れたのです。キリストは律法の完成者です。福音書を見るとイエスは律法を厳格に守り、行っていたわけではありません。どちらかというと守らず、行わなかったように感じるでしょう。しかし、イエスにとっての律法は、言葉や守るという行いではありませんでした。その生きざまが律法であり、律法の精神、律法の本質を生きておられたのです。
 お祈りしましょう。

讃 美   新生568 この旅路は険しいけれど
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏