前 奏
招 詞   イザヤ書52章7節
讃 美   新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
讃 美   新生575 栄のみ神よ
主の祈り
讃 美   新生131 イエスのみことばは
聖 書   ローマの信徒への手紙10章14~21節
                   (新共同訳聖書 新約P288)
宣 教   「すでに伝えたこと」          宣教者:富田愛世牧師

【キリスト・イエスの使徒】
 今日、読んでいただいた10章14節でもパウロは「ところで」と言って話題を変えています。基本的には同じような話の流れの中にあると思いますが、ここからは「宣教者の存在意義」という事で、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者について語ろうとしています。
 その背景には、当時の弟子集団の中で「使徒」と呼ばれる人たちの存在があったと思われます。
 パウロは、このローマの信徒への手紙でも最初に「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と言って、自分を「使徒」であると自己紹介しています。
 他の手紙でもパウロは、その書き出しの挨拶で「キリスト・イエスの使徒」という言葉を用いて自己紹介をしています。なぜ、パウロは「使徒」と呼び方にこだわっていたのでしょうか。それはコリントの信徒への手紙を読むと分かるように、パウロを「使徒」として認めない人々がいたからです。
 エルサレムにいる弟子集団の中で「使徒」と呼ばれる人々の多くは直接、イエスの言葉を聞いた人々でした。それに対してパウロは直接イエスの言葉を聞いたことはありませんでした。また、エルサレムの使徒たちからの按手も受けていませんでした。
 そんなパウロの語る言葉を誰が信じるのか、という事で、パウロにとっての「使徒」の定義のようなものが生まれたのだと思います。それは、キリスト・イエスによって「遣わされる」という事でした。この点については、パウロは自信をもって、自分はイエスの霊によって召され、遣わされていると確信していたのです。

【宣教者の存在意義】
 もう一度14~15節を読んでみます。
「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」
 ここでパウロは「信仰」という事は、まず、聞くことから始まると主張しています。キリスト・イエスが語られ、それに沿って行動した福音を聞くことがなければ、誰もイエスを信じることができないのではないか、というのです。
 そして「呼び求められよう」とあるので、信じる方に向かって、祈り、礼拝する姿勢が語られていると思うのです。祈り、礼拝するためには、その方のことを聞かなければ知ることがなかったというのです。当然の事かもしれません。
 次に「宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう」と言って、信仰するためには、聞かなければならない。聞くためには、それを伝える人がいなければならない。という事です。
 ここで、パウロは自分を含めて、キリストの福音を宣べ伝える者が必要だという事を訴えているのです。
 次に「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」と語ります。ここはとても大切なところで、いくら「福音」だからと言って、自分勝手に語るのではないという事です。
 よくテモテへの手紙二4章2節を引き合いに出して「時が良くても、悪くても」福音を伝えなさいとおっしゃる方がいます。確かにその通りかもしれませんが、ここでは「遣わされる」という事が語られています。
 それは神の計画の中で語るという事だと思うのです。自分勝手に、自分の都合に合わせて語るのではないのです。使徒言行録16章6~7節でパウロは伝道旅行中、アジア州に行って伝道しようとしましたが「イエスの霊」によって禁じられました。
 「伝道」という大義名分であっても、神の許しなしにはできないのです。福音を語るという事も、自分勝手に、自分の都合で語るのではなく、神によって遣わされなければ、語ることは許されないのです。

【すでに伝えたこと】
 15節の後半には「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」とあります。これはイザヤ書52章7節の引用で、バビロン捕囚から帰還した民が神殿の再建をする預言です。「良い知らせ」とは「平和の知らせ」です。
 バビロン捕囚から故郷へと帰還し、心の拠り所としていた神殿が再建されるという事を伝えてくれる預言者を人々は喜んで迎えたように、キリストの福音を語る者を人々は喜んで迎え入れるだろうというのです。
 そして、16節からを見ると「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。」と言って、今度はイザヤ書53章1節の言葉を引用します。そこでは「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。」と語られます。それはイザヤ書52章で語られる「苦難の僕」の姿がユダヤ人のイメージする「メシア」像とかけ離れていたから、誰も信じないと語られるのです。
 喜びの福音が語られたからといって、すべての人が、それを信じるわけではないのです。信じる人もいれば、信じない人もいるのです。しかし、キリストの福音を聞いて、信じる人は信仰を得ることができるのです。
 さらにパウロは続けて18節では「彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。」と語ります。この問いの背景には、福音を聞いたことがないという人がいたのかもしれません。それに対してパウロは詩編19編5節を引用して「その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう」と語ります。
 神の言葉はすでに「全世界」に伝わっているというのです。キリストの福音という形では伝わっていない所もあるでしょうが、神の業は自然界を通して世界中に伝わっているのです。
 次の19節後半には申命記32章21節が引用され、ユダヤ人に伝えられるはずの福音をユダヤ人が拒んだので、神は異邦人に伝え、ユダヤ人が妬むように仕向けたというのです。
 この展開は、ローマの信徒への手紙9章からの流れに合わせた展開となっています。

【イザヤも】
 最後20節からは、もう一度「イザヤも大胆に」と言って、イザヤ書からの引用を用いて説明しようとしています。
 この引用はイザヤ書65章1~2節で、
「わたしに尋ねようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり
わたしを求めようとしない者にも 見いだされる者となった。
わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。
2反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 
絶えることなく手を差し伸べてきた。」
と書かれています。
 ローマの信徒への手紙の言葉を用いるなら「わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」というように、9章30節以下で語っていた「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。」という言葉と同じことが、ここでも語られているのです。
 つまり、選ばれるはずのない者が選ばれ、選ばれるはずだと思い込んでいた者たちが選びから漏れてしまったという、残念な事実を繰り返し、述べているのです。
 これは、パウロが語る福音の本質、律法の行いによって救われるのではなく、キリストを信じる信仰によって救われるという事を、ユダヤ人のかたくなな信仰姿勢に対する批判から語っているのです。
 そして、21節にあるように、そのような反逆の民に対しても、神の御手は差し伸べられ続けているのです。
 「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」神の愛と憐れみは、諦めることや排除することではなく、裏切られても、裏切られても、なお、手を差し伸べ続けることなのです。
 その姿は、人々がイメージする偉大な支配者としての神のイメージではなく、鞭打たれ、唾を吐きかけられ、さげすまれた、十字架のイエスの姿なのです。

讃 美   新生650 喜びて主につかえよ
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏